須川さんは満ち足りない

食欲、性欲、睡眠欲。人間の三大欲求。
私、須川ミズキはこの中のひとつ、食欲が制御できない特異体質を持っている。
でもテレビに出られるくらい大食いってわけじゃないし、太っているわけでもない、本当だ。信じて。
ただ、一度お腹が空くと何かを胃に入れるまで何もできなくなるタチなだけだ。空腹を我慢するくらいなら死んだ方がマシと言っても過言じゃない。それほどまでに、私にとって食事は幸福な時間であり、空腹は脅威なのだ。
生まれてこのかた朝昼晩の三食は欠かせてこなかったし、去年インフルエンザにかかったときもしっかり三食たべた、そのあと全部吐いたけど、その分また食べた。時々自分のこの体質が嫌になるけど、一度ご飯を食べればそんなことも忘れちゃうから、余計にタチが悪い気がする。あーあ、私の人生が物語になるなら、いまどきのグルメ漫画にありがちな「須川さんは満ち足りない」的なタイトルになるんだろうな。やだやだ。
でも、制御できない欲求が、性欲じゃなくて良かったな、と思う。だってそんな体質だったら…。
「おはよ、須川」
私が毎朝教室に入ると必ずかけられる優しい声。私の彼氏、リョー君に嫌われちゃうかもしれないから。
リョー君と私はクラス公認のカップルだ。私の体質も理解してくれたうえで付き合っている。この間もデート中に訪れたレストランで、私がご飯を食べているところを幸せそうな顔で見ていてくれた。男女問わずみんなが「仲良いね」と認めてくれるお似合いのカップル。でも教室では過剰にいちゃついたりせずに一定の距離感を保ってるから、私たちの関係を妬む人もいない。リョー君のことはもちろん、周囲の人たちも大好き。私は全てに恵まれた最高の幸せ者だ。結婚式にはクラスメイト全員呼んじゃおっかな。
その日は授業を一時間潰して、来週一泊二日で行われるスキー教室の予定を立てた。
リョー君は男の友達多いし、一緒に滑ってくれないんだろうなあ。友達と一緒に滑るのが嫌ってわけじゃないけど、ちょっと寂しいな。あーあ、お腹すいてきた。
「須川、誰かと滑る予定あるの?」
背後から声が聴こえて、私は即座に振り向いた。つんつんした短髪に、すらっと背の高い、少し日に焼けた顔の、私の好きな人が立っていた。
「リョー君は? 私と滑ろうよ一緒に!」
「うん、良いよ。俺も誘おうと思ってた。須川はスキーしたことある?」
「ううん」
「じゃあ俺が教えてやるよ、そんじゃまた放課後な」
はあー、嬉しい。言ってみるもんだなあ。私は舞い上がってしまった。お腹が空いていたことも一瞬忘れるくらい(一瞬だけしか忘れられなかったのが少し悲しい)に、私のテンションは急上昇した。その後のお昼ご飯はとても美味しかった。
リョー君は朝練があるから登校は一緒にできないけど、私が待っていれば一緒に帰ることはできる。リョー君はサッカー部に所属していて、一年生ながらレギュラーなのだ。だから毎日暗くなるまで練習に励んでいる。あ、ようやく終わったみたいだ。
「待っててくれてありがと。そんじゃ一緒に帰ろっか」
いつもお礼を忘れないところ、ほんと好き。
帰り道は二人でスキー教室の話をした。
「ねえねえリョー君、私たちが泊まるとこ、夕飯にカニが出るらしいよ! 楽しみだな〜」
「須川、食べ物の話ばっかだな。スキーもちゃんとしろよな」
「わかってるよー」
「ほんとかよ。それより今日の練習キツかったら、腹減ったな」
「あ、私もカニの話してたら小腹が空いてきたとこ…」
「じゃあ、コンビニ寄って帰るか」
「やった!」
私は幸せだった。
スキー教室へ行くバスも、リョー君の隣の座席だった。リョー君にレクチャーしてもらいながらスキーを楽しんで、美味しいカニを食べて、大きいお風呂に入って、同じ部屋の友達とお喋りしながら眠って……。
プランは完璧だった、はずだったのに…。

数メートル先も見えないほどの吹雪が、私のスキーウェアに突き刺さっていく。染み込んできた雪に体温を奪われていく感覚。
一体いま何時だろう。視界には黒い闇と雪の白が広がり、不気味なグラデーションを形成している。唯一の救いは隣にリョー君が居ること。リョー君の青いスキーウェアが、なんとか私の冷え切った思考を紛らわせてくれる。
私たちはスキーのコース外へ滑落し、森の中へ投げ出されたのだ。二人とも大きな怪我をせず済んだのが不幸中の幸いだった。
「みんな、心配してるだろうな…」
「…そうだな」
私の弱々しい呟きに、リョー君が返す。二人きりでスキーをしていたため、私たちがコースを外れていくのを見た人は恐らくいない。そう考えると無性に怖くなってきた。助けは来るだろうか。宿舎に戻ってクラスのみんなと会えるだろうか。家に帰れるだろうか。…生きて帰れるだろうか…。
「須川」
突然リョー君の声がして、我に返った。
「あれ、見えるか?」
リョー君が指差した方向に目を向ける。吹雪のカーテンの向こうに、小さな小屋が見えた。
「あの中で助けが来るのを待とう」
積もり始めた雪に足を取られながら、私たちは小屋の扉を開けた。
小さな丸太小屋はがらんどうで、ストーブはおろか、カーペットや寝袋の類すらなかった。それでも吹雪をしのげるだけマシか。私たち二人は壁際に寄り添って、互いに冷えた身体を温め合い、助けが来るのを待った。
「須川、寒くないか? 眠くないか?」
リョー君がしきりに話しかけてくる。私はというと、寒さも眠気も気にならないくらいの欲望と戦っていた、そう、空腹だ。
一日中スキーをしていた疲労が、空腹となって私に襲いかかってくる、何かを口にしないと、何も考えられなくなりそうだ。
「リョー君…お腹すいた…」
私のつぶやきに、リョー君が同じくらいの声色で返す。
「…あとどれくらい我慢できる?」
「もう我慢できない…」
口に出してしまうとひもじさに拍車がかかる。何か食べたい。食べ物のことしか考えられない。なんでも良い。今頃みんなはあたたかい宿舎でカニを食べているのだろうか。私も食べたい。お腹がすいた。
「須川、聞いてくれ」
「何?」
「助けが来るかもわからないまま、ここで何もせずにいたら二人とも凍死すると思う。須川の空腹も保たない。だから、だから…俺を食べてくれ、須川。須川には生きていてほしい」
リョー君の歯がガチガチ音を立てているのが聴こえる。それは寒さからか、死への怯えからか。それとは反対に私の頭は、これから食べ物を口にできる喜びに満たされていた。
リョー君がスキーウェアを脱ぐと、締まった上半身が露わになる。四つに割れた腹筋に私が触れると、リョー君の身体が指の冷たさに反応して跳ねる。
「本当に食べて良いの? リョー君のこと…」
「うん。須川だから」
ごくり、と私の喉が鳴った、リョー君の左腕を持ち上げ、顔を近づける。左手の中指が私の唇に触れる。もう我慢の限界だった。
「じゃあ…いただきます」
リョー君の指に、私は力の限り噛み付いた。
薄い皮膚が破け、あたたかい血が口の中に流れ込んでくる。余りの痛みに、反射的に手を引いてしまったリョー君の指の肉が、私の歯でこそげ落とされていく。人差し指と中指の骨が見えた。
「うううゔぐぐぐぐぐ」
リョー君は自分の右手を噛み、私を心配させまいと必死に声を殺している。両足の太ももが痙攣しているかのように、激しく震えている。それを見ながら私は「右手を食べるとき間接キスになっちゃうな」と考えていた。
ガチンと音がし、私の上下の歯が合わさった。私の口の中には、冷たくて硬く、ゼリービーンズを思わせる形の物が残った。リョー君の中指を噛み切ったのだ。塩辛い味と鉄の味が交じる。ガリガリと噛み砕き嚥下すると、私の胃がもっとよこせと言わんばかりに暴れ始める。数分前の自分の発言を後悔するように、涙と汗をダラダラ流し、私から後ずさろうとするリョー君の腕に噛み付く。短い毛がチクチクと、私の舌や歯茎に刺さるが構わない。皮膚の下に筋肉の存在が感じられる。今度は顎に力を入れても血と汗と皮脂で滑り、なかなか上手く噛み切ることが出来ない。何度目かの挑戦で、ようやく私の犬歯が左腕の皮膚を突き破る。熱い血がどっと口の中に押し寄せる。べろりと皮膚の剥げた部分から、黄色い皮下脂肪がぷつぷつと捲れ上がる。ふと、自分の膝のあたりに温かいものを感じる。リョー君が失禁している事に気付いたが、今は食事のことしか考えられない。左腕からは白とピンクの交じった肉が露わになり、湯気を立てている。リョー君の断末魔を調味料とし、私は肉にかぶりつく……。
リョー君の二の腕。肩。太もも。脇腹。
痛みで気を失い、痛みで意識を取り戻し、絶叫と呻きを繰り返す。そんな地獄の苦しみをリョー君に味わわせながら、私は空腹を満たしていった。首の皮膚を歯で貫き、筋張った肉を食いちぎった時、とうとうリョー君はぶくぶくと血の泡を吹いて動かなくなった。想像を絶する苦痛と恐怖に、歪んだままのリョー君に顔を近づけ、唇と舌の先端を齧りとった。両腕の、二つに分かれた前腕骨の周りの肉は全てなくなり、手首から先は骨すら残っていない。うなじの生え際あたりまでの首の辺りに、私の涎と歯型と、わずかに残った肉片が残っている。ほかに食べられそうなところは、頰の肉だろうか。
このまま助けが来なくても良いと思った。
私は胸を押さえて呻いた。リョー君を喰い殺してしまった罪悪感ではない。リョー君の小骨が、喉につっかえたからだ。

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