【修論ゼミ(1)】修士論文とはどんな成果物なのか?

2年前、「卒論ゼミ」という記事を書いていました。10年以上に渡って苦心してきた卒論指導の方法を、一度しっかり言語化してみようという試みでした。当時のゼミ生のみなさんとの対話形式で、9回に渡って書きました。とても体系的とは言い難いものでしたが、その翌年の卒論生のみなさんにも、密かに役に立っていたようでした。毎年同じようなことを繰り返し(相手は別のグループなのですが)伝えなければいけないもどかしさを解消したい、というのが一つのモチベーションでしたので、後続のみなさんの独学を促すことができたとしたら、とてもよかったと思います。


いま読み返すと、大変に硬派な内容(自分で言うのもなんですが)で、卒論を書くハウツーというよりは、研究とは何ぞや?ということを結構しっかり論じているので、社会科学分野で修士論文や博士論文に取り組む大学院生さんにも、きっと役に立つと思います(読んでね)。


さて、今年は「修論ゼミ」をやってみよう、と思い立ちました。「卒論ゼミ」のなかでも、修論と卒論の違いということに触れています(場所をなかなかみつけられないので、探してみてください。なかったらすいません。。。)。卒論は、その分野の「作法」を身につけていることの証明である、というのが、私の説明でした。対して修論、つまり修士論文はというと、これがなかなか難しいです。


世に修士課程のプログラムというのはたくさんあり、その性格は様々です。MBAとかロースクールのように、専門職修士と言われるようなものは修士課程を終えたらその専門性を活かしてバリバリと働くことを前提にしています。他方で、伝統的には修士課程というのは大学院の入り口で、その先の博士課程につながる研究者養成の最初のステップという性格があったといえます。なので修士課程のことを博士前期課程と呼ぶ場合があったり、海外では博士課程の最初の一年とか二年を修士課程として位置付けている場合もあったりします。最近ではこの両者の中間にある(と言っていいのかもよくわからないですが)ような、多様な学位が作られています。世の中の先端的な課題に対応して、トピックごとに、時にキャッチーな名を冠して、MBAのような専門職性は持ちきれないけれども、研究者になりたい人をターゲットにしたわけではない修士課程プログラムというのが、たくさんあるわけです。


なので、どういう性格の修士号を取りたい人向けの「修論ゼミ」なのか、ということを、一旦確定してから書き始めた方がいいような気がしています。というより、これは第一義的には私のところに来てくれる学生さんに対してのガイドなので、私のゼミで修論を書いてくれるということはどういうことなのか、という説明でいいわけではあります。私のゼミにいるわけではない方で、この一連の記事を参考にしてくださる方がいらしたら、修士号には上記のようなバリエーションがあるから、気をつけてくださいね、と断っておきます。


というわけで、私自身が研究者として(なんとか)身をたてるにあたり大変苦労した(≠努力した)という経験に基づいていることもあり、やっぱり「研究者養成」の入口としての修士論文というものに、焦点をおくことにしましょう。逆にいうと、修士課程への進学を考える方にとっては、私のところに来るとそういう修論指導をしますよ、というメッセージになるかもしれません。博士に進学したくない人にとっては、そんな必要ないのに、、、ということになるかもしれないし、たとえ今は博士に進学するつもりはなかったとしても、もしそう思い立ったときに役に立つからラッキー!というふうに思ってくださってもいいかもしれません。


前置きが長くなりましたが、本題に入っていきましょう。研究者養成の入り口としての修士課程というふうに考えたとき、修士論文というのはどういう性格の成果物だと考えたらいいのでしょうか。卒業論文が「その分野の作法を知っています」ということだとして、修士論文はそれでは足りないということになります。私の考えでは、修士論文は「研究者の仲間入りをしたいです」という意思表明、という感じです。なので「作法」にとどまらず、やはり「オリジナルな知識」を産み出す営みの一部であることを、しっかりと示せていることが大事になります(卒論ゼミ(3)参照 https://note.com/udonslax/n/nf98c0541b5c7)。


卒論は「作法」を知っているだけでよいと私が考えるのは、既存知識と何が違うのか、ということを詰め切るというところまで行くことが、卒論ではほぼ不可能だからです。既にある知識を全部知っていなければ、何が新しい(=オリジナル)なのかということは、言えません。世の中に存在する知識を全部知っているなどということはあり得ないので、「専門領域」といわれるように、知識の範囲に限定をかけた上で、その範囲内のことは知ってます、ということを求められます。


修論が難しいと思うのは、この「オリジナリティ」という基準は、博士論文にこそ求められるものだからなのです。修士課程と博士課程が不可分だと考えられていた時代には、つまりは博士論文でオリジナリティを示す前段として、修士課程を修めておいてくださいね、ということだったわけです(たぶん)。博士課程で独立した研究を行う前に、その分野での研究に必要なスキルセットや知識を身につける。これが修士課程の意味でした(と思います)。


ところが今では、修士課程だけで大学院を終える人も多いし、修士課程とは違う分野で博士の学位を取ろうとする人も多かったりして、修士課程でも博士課程でも、それぞれに前段のトレーニング部分と、後段の独立研究の部分とを、それぞれ2年ないし3年というスパンの中に入れ込まなければいけない状況が生まれているように感じます。本当は5年でデザインされていたものを、2年と3年という(1年しか差がないのです!)塊に縮小したミニチュアを2つ作った感じです。なんだか窮屈で、大したものができない感じがしてしまいますね。


私自身も、何を隠そう、学士から修士で専門を変え、修士から博士でも専門を変えてしまいました。関心のあった研究テーマということでは連続性があったのですが、やはり求められるスキルセットと前提知識がガラリと変わるので(それを求めて変えているわけでもあるのですが)、それにまつわる苦労があったと思います(いや、学士も修士も不良学生だったので、本当は博士からしっかりトレーニングができた、という感じかもしれませんし、実は学士と修士のトレーニング、つまり卒論と修論を書いた経験が、博士でのトレーニングの下地になったな、という感じもしています。うん)。


でも私が博士課程を取ったイギリスでは、博士課程のカリキュラムというのが、とてもしっかりしていたことが、救いでした(そもそもそれを求めて留学したのですが)。3年(正確には最低3年、です。博士課程は3年ぴったりではなかなか終わらない、という苦い現実があります)というスパンはとても長いので、そこにストラクチャーを与えてくれるカリキュラムというのは、とても大事だと思います。これは指導教員の独力ではなかなか用意してあげられず、やはり組織として大学全体や研究科全体の単位で用意してあるのが、理想的だと思います。


私の留学時には、1年目は先行研究レビューと方法論のトレーニング、1年目の終わりにプロポーザル提出、2年目から調査を行なって3年目に論文を仕上げる、という感じでした。2年目以降はストラクチャーが一気に曖昧になるので、そこは難しく、論文を提出するまでに4年半かかってしまいました。それに加えて実は留学前に1年半、日本の大学の博士課程に在籍していたので、そこでも方法論や社会科学の哲学などの基礎訓練を積んでいたため、留学1年目のトレーニングはそれを体系的に復習していた、という性格もありました。修士課程の時に済ませておくべきトレーニングに、実は博士課程に進んだのちの2年半を要していた、というふうにも考えることができます(そのぐらい、修士では基礎を作れていませんでした)。またイギリスの博士課程の当時のカリキュラムも、国の奨学金をもらう場合には、実は1年目のトレーニングで修士を取りその後3年で博士論文を書く「1+3」と呼ばれるモデルになっていて、奨学生でない場合には1年目に2年分をやる、という感じだったのでした。


私の失敗談(?)からお分かりの通り、修士課程で基礎力を身につけていることが、博士課程が順調にいくために大事だということが言えます。だから研究者養成の入り口としての修士論文は、この基礎力を作ることに役立つものでないといけないのです。他方で、修士論文がいわば「ミニチュア版博士論文」だとすると、修士に入った時点で「基礎力」がなかった場合、2年という年限で仕上げるということにものすごく無理がある、ということも言えるのです。私の指導経験からしても、卒業論文の時点での基礎力が高い方の場合は、修士論文も順調に進みやすく、また最終的な成果物の質も高くなる傾向が明らかです。反対に、基礎からしっかり仕込んであげよう、と思ったとしても、これがなかなか2年では間に合わない、という経験が多々ありました(そういう学生さんには、大変申し訳なかったと思っています)。


したがって、この初回の記事でお伝えしたいことは、2つです。ひとつは、しっかりした修論を書きたければ、1年目が勝負だということです。修士課程入学時の基礎力は人それぞれなので、必ずしも全員に同じ学習のステップを求めることが正しいわけではないです。しかし基礎力を養わなければ論文が書けないというのは、全員に共通しています。2年あるからといって、油断することのないように。1年目の学習計画や学習習慣づくりが、非常に大事になります。


もうひとつは、上で述べた「「オリジナルな知識」を産み出す営みの一部であることを、しっかりと示せていることが大事」ということの含意にかかわります。「オリジナルな知識」を生み出すことは、博士論文では必須です。修士論文でも、これを目指すことは可能です(1年しか違わないし!)。ただ、そのスケールは博士論文よりもずっと小さくしておかないといけない、ということになります。


他方で、「オリジナルな知識」を産み出しきれない場合にも、修士論文として成り立つ場合がありうる、と私は考えています。だから、その営みの「一部」であることを示せていること、という言い方をしてみました。これはまだ私自身も十分に言語化できそうもないところなので、この連載を続けることで、わかってくるといいなぁ、と思います。特に博士課程に進学することが選択肢にある場合には、「博士論文のミニチュア版」的な、スケールをだいぶ小さくしたオリジナリティを求めることでは、博士課程での研究のための基礎力養成としては不十分、というケースがありそうでならないのです。


というわけで、「卒論」と「博論」のあいだにある「修論」というかなりその性格に幅のある成果物を生み出すために、何を大事にして、どんなプロセスで、学習なり研究なりをしていくとよいのか、ということを、またみなさんとの対話によって、探っていければと思っています。しばらくお付き合いいただければ幸いです。

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