大江健三郎の「セブンティーン」を読んで

大学生になって、自分で自分の行く先を決めることが多くなったからか、教室という狭い世界から出ていったからか、他人に期待することを諦めたからか、知らないうちに自信がついて自分を好きになれているからか、なんでかわからないけど「忘れらんねえよ」と「銀杏BOYZ」を聴かなくなっていた。

当時よく聴いていた曲の中でも、特にヘビーローテーションしていたのが「ばかばっか」という曲である。「忘れらんねえよ」の曲だ。この曲からは、輝いていて自分には手の届かない女の子への拗らせた恋心とそんな惨めな自分を放って置く世界に対する反抗心を感じる。この曲を聴くとき、私はいつも背中を押された気持ちになる。自分だけじゃない。そう思えるのだ。

 そんな気持ちも忘れてしまっていた最近、大江健三郎の「セブンティーン」という文章を読んだ。あまり文学作品を読む習慣がない私だが、読むことが億劫にならない内容であった。

読み終えて思った。

 きっと私が主人公の彼と同じ教室で学ぶ生徒だったら、私は彼を知らぬ存ぜぬという顔をしながら遠目で眺め、心の中では軽蔑しているだろう。

 しかしなぜかわからないが、彼の心中を知ることができる読者としての私は、彼に共感できたし、彼の行動を軽蔑することもなかった。

 それはもしかすると、私が好きなバンドと似ているからかもしれない。

 文章を読んでいる途中、頭に2つのバンドの存在が浮かんだ。それが先ほど述べた、私が好きな、いや、好きだった、「忘れらんねえよ」と「銀杏BOYZ」である。

3つの共通点は、少年のやり場のない性欲と複雑で扱いづらい自意識をテーマとしている点だと思う。

 世の中には思春期を題材にした表現が多く存在するが、それは大半がキラキラした青春やシンデレラストーリーだ。別にそれが嫌いってわけじゃない。王道は誰だって好きだ。

 でも人間みんなが物語の主人公みたいな、ヒーローやヒロインみたいな人生を送っているわけではないと私は思う。

 自分を表現することを苦手とし、世界の隅で自分はひとりぼっちだとイライラする人もいるはずだ。そんな彼らの気持ちを代弁して、音楽で表現しているのが「忘れらんねえよ」と「銀杏BOYZ」だ。

「セブンティーン」を書いた大江健三郎がそんなつもりでいたかどうか、本当のところはわからない。

 他人も自分も、世界が大嫌いで、イライラして、何もかもが嫌になって自暴自棄になっている少年が、自分を表現できる居場所を見つけられたことに私は胸が熱くなるのだ。

 それが乱暴で攻撃的な右翼の一員であろうと、人気がなく小さなライブハウスで叫ぶおじさんバンドマンだろうと。

 人はそんな寂しさや、どうしようもない感情を昇華し、表現することで救われるのかもしれない。

たしか私も彼と同じくらい、ぐちゃぐちゃしたセブンティーンだった。そんな気がする。なぜなら文章を読み終え、ヘッドフォンを付け、久しぶりに爆音で「ばかばっか」を聴いたとき、あの頃を思い出して、なんだか寂しい気持ちになったから。それと同時に昔の自分を遠くから眺めている気分にもなった。私と彼は同じなんだと思った。

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