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無知は喋ってはならないのか~知へのリスペクトの欠如~

無知は主張するなというのか、議論するなというのか。
それは表現の自由、言論の自由の侵害ではないのか。

ネット上で無知を指摘されたユーザーがふとそのようなことを言ったのを見かけた。はっきり言おう。

黙れ。

無知側からそのような言が出てくること自体が知へのリスペクトへの欠如を強く覚える。
これからこのことについて述べていきたいと考える。

知へのリスペクトへの欠如

COVID-19の2類5類論争

COVID-19、所謂新型コロナウィルス感染症が流行した2021年。とある論争が世間に巻き起こった。

COVID-19を2類感染症にすべきか5類感染症にすべきか。

という論争である。
もともとCOVID-19は2類感染症であるが、5類感染症に認定すれば、様々な規制が緩和されるという。
その是非については一先ず置いておく。問題はメディアが世論調査をして5類にすべきという世論を作り上げようとしたことだ。

そもそも感染症法も感染症もCOVID-19についても碌に知らない素人が2類か5類かを判断して、何になるというのだろう。
世論が感染症法について判断力を持つとは思えない。
専門家が判断すべき事項である。世論調査をする意義を全く感じない。世論という力を利用して、メディアが行政がそのような判断するよう誘導する政治的意図すら感じる。むしろ世論を背景に発言力をもったと思った素人の登場は、現場に混乱を招くだけだ。

このことからも無知は安易に主張するべきではないと考える。

議論には知識が必要

もっとわかりやすい例を考える。

ヘミデスモソーム結合における中間系フィラメントの働き

このような話題があったとする。何の知識のない人が議論に参加して果たしてお互いに得るものはあるだろうか。
まだ無知側は知識を得られる分良い。だが知識のある側は何を得られるというのだろう。
ただの徒労でありイライラするだけで疲れるだけである。そこで無知側に無知を指摘すると、冒頭の発言に繋がり居直られる場合もある。
はきりと言って、知識のある側へのリスペクトの欠如であり、知へのリスペクトへの欠如と言える。失礼である。
知識は何も降ってくるものではない。習得には時間的にも労力的にもコストが必要である。そのことを忘れてはならない。
議論には互いのリスペクトが不可欠であり、その時点で無知側は議論に立つ資格がないと言える。
そもそも議論には主張が必要であり、主張には根拠であり、根拠には知識や資料が不可欠である。知識や資料を集積してもなお不足する場合がある。だからいって全く調べないのは怠惰であり、知へのリスペクトの欠如であろう。

ネット社会の弊害

ネット社会となり、無知側の発言力が強くなったように思える。大概論争になる話題は、それについての専門知識を持たない者が大多数な話題であろう。すると下手に知識が必要な主張よりも、無知側の主張の方が、大多数の無知側が共感し支持を得るという現象がしばしばみられる。数だけは多いものだからその支持は、みかけ上説得力を持つようになる。前述の世論調査も同様のことだ。
だがその主張は誤りである場合も少なくない。そういった主張を是とすることは事態を悪化させる危険性もある。

無知の知

ならばと、全て知っていなければ議論に参加してはならないのか、と極論を持ち出す人もいるだろう。それこそ知へのリスペクトへの欠如である。最低限必要な知識というのは題材とTPOによって如何様にも変わり、異なるとしか言いようがない。
そしてその極論を持ち出す者は自分が勉強したくない理由づけをしたいだけにしか思えない。やはり知へのリスペクトの欠如である。

ここで思い出してほしいのが、ソクラテスの無知の知という概念である。
ネット上でこれを用いている人の多くがマウントのために用いているように思える。つまり無知の知を自覚したから私は謙虚であり、素晴らしいというマウントであるが、そうではないと考える。

人間は全てのことを知ることはない。必ず知らないことがある。
まず自身が無知であることを自覚する。そこから勉強する姿勢が重要であり、それこそ謙虚さであろう。むしろ無知の知は恥でありわざわざ誇る事ではないであろう。

表現の自由への言及

冒頭に表現の自由、言論の自由の侵害ではないかという指摘もあったので、それについても触れておきたい。
そもそも表現の自由が保障される意義として、自己表現の手段のためという理由もあるが、ここで重視されるべきは真理追及のためという理由であろう。
つまり箸にも棒にもかからない放言はノイズであり、自由の立場に立てばむしろ害悪であると考える。
だが自己表現の手段という立場に立てば、そのノイズも認めるべきである。まして検閲や弾圧は、妥当性のある主張の萎縮も引き起こし兼ねず、認められないであろう。
そういった発言は、自由の立場に立てば、むしろ集団として妥当性の判断をするリテラシーを習得することで淘汰すべきである。そのためにそれぞれがその発言や話し手を無視もしくは批判するしかないのである。

ついでに言えば、憲法の定める自由は、公権力により規制、検閲されないこと、他者を侵害する場合は規制され得るという、主に公に対する自由なので、彼らのいう自由が妥当な使われ方なのかには疑問視である。

まとめ

結局、無知であることは恥であり、無知ゆえに主張して良い、議論して良いと勘違いしていると考える。
知へのリスペクトの欠如が更なる欠如を生む悪循環である。

その悪循環を私は止めたい。
私には知らないことは沢山ある。
少しでも自覚し、謙虚に勉強し、主張すべき時は主張し、批判すべき時は批判していきたいと考える。

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