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【アイデンティティのこと】一人称問題

福岡の朝の6時半はまだまだまっくらで 
雨あがりの水たまりに古い建物の外灯が映っていて
思わず見とれてしまった。

福岡の海岸沿いは、九州とはいえ
冬は暗く、寒い。
気候は日本海岸式気候で
(いまの小学生はこんなふうに習うらしい)
朝鮮半島がなければ豪雪地帯だったはずだと
聞いたことがある。

ぼくはもともとが暗い性分なせいか
明け方の暗い時間が好きだ。
だれにも見られずに外を歩ける時間、というのが。

ぼくは「ぼく」という一人称を使っているけれど
生まれたときに割り当てられた性は女性で
名前も、どう見ても女性である。

1970年生まれでもう53歳だから
それなりに長い年月を「女性」として生きてきたわけで
ある程度の適応はしてきたのだと、思う。
どう考えても体は女性だし
子どもも産んだ。

それでも
男性と女性のグループに分かれてくださーい
なんて言われたとき
さてどっちに行けばいいのかな、と一瞬迷ってしまうのは
物心ついたころから変わらないのだ。

正直に言えば、男性のほうに行くほうが居心地がいい。
女性ばかりのグループは苦手だ。
とはいえそんなことをされては
男性たちが落ち着かないのもわかっている。

つまりどこに行っても居場所がなく
自分はおかしいのだと、ずっと思っていた。
当然ながら、希死念慮も、あった。

そんなこんなで暮らしてきた50年以上の時間に
光が差してきたのは、去年のことだった。
「クエスチョニング」という定義に出会ったのだ。

えぇなに? 
どっちでもいい、どっちかわからない
そういうのが、ありなんですか?

ものすごくものすごく
ほんとうに、楽になった。

死ぬ思いでまわりに打ち明けてみたけれど
周囲の反応は、ぼくが思っていたよりもはるかに
薄いものだった。

そうか、たいしたことじゃ、なかったんだ。

大騒ぎをせずに受け止めてくれた方々には
ほんとうに感謝している。

そして一人称問題である(前置きが長い)

先日、とあるエッセイを読んでいて
「ぼく」という一人称に出会った。

なんだか久しぶりだった。

そうだね、こんな一人称もあったね、と思った。

使ってみようかな

そうして「ぼく」で文章を書いてみたところ

こんなに楽なんだ、というのが正直な感想だった。

小学生のころの一人称は「ぼく」だった。

「わたし」というのは
女性としてのふるまいを期待してくる周囲の人を戸惑わせないために
仕方なく使うようになった、ような気がする。

「わたし」を使うたびに
これはほんとうの自分ではなくて
社会に適応してきた、適応させられてきた
偽物の仮面を被った「わたし」だという気がする。

もちろんある程度かしこまった場面で「わたし」を使うのは
男女問わずよくあることで
それは当然であろうとは思うのだけれど。

自分のことを自分の言葉で話すとき
ぼくは「ぼく」という一人称を使うほうが
断然、楽なのだ。

そう気づけたことがうれしいし
「ぼく」で書いていることに
ネガティブな反応がひとつもないことにも
感謝している。


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