SM関係、ペットの定義とはなにか

いかにも面倒臭そうなタイトルですよね。なんなんでしょうか、SMを語ろうとすると文学的な表現を意地でも使ってやろうみたいな感じ。俺もそうなってるし過去のエントリー見るとヒェッてなるんですけど。みんな必ずその症状出ちゃいますよね。なるべく出ないように頑張ります。

SM関係、ペットの定義ってなんでしょうね。わかりません。結論。サドとマゾ、主と従者。それは本人たちが納得するかどうかでしかないし、外野から見てやいのやいの言うことでもあるまい。先日ペットと遊んでいた時に、この1年で随分とくだけた関係になったよね、と話した。最初は敬語で話していたし、会うたびに緊張していたという。でも今はそんなことはなく、タメ口だし緊張もしない。それを本人は「主従関係って感じがしない、これで良いのだろうか」と小さい不安というか疑問が芽生えていたようで。でも別に良い。これで良いのか?と言われたら、良い。俺が納得してるし窮屈じゃないから良い。

こういうことだと思う。つまり、従者が不安を抱いたときの指針になる結論を持っているのが主の存在なんじゃないかなと。大人になると「先生」はいなくなる。もちろん仕事を教えてくれる上司や先輩はいるし、そういう意味での先生はいるかもしれない。けれど、子供の頃みたいに、友達を作りなさい、勉強をしなさい、良い学校へ行きなさい、有名な企業に就職しなさい、結婚して子供を作ると幸せです!なんて、「人生における正解」を押しつけてくる先生はいない。大人になると「人の数だけ正解があります」といきなり社会へほっぽり投げられるのだ。困ったもんだ。よくよく考えると教員として就職して社会の全てを知った気になって指導してくる先生とかちょっとムカつくな。

そりゃ社会人は誰しも悩みますよ。正解だと信じて目指していたつもりが、正解じゃないかもしれないんだから。これで良いのかなって不安になりますよね。でも、「人の数だけ正解がある」社会ですから、答え合わせはできない。中小企業に就職したら不正解?インスタのフォロワーが1万人超えたら正解?そんなものは誰にも分からないわけです。

そういう、ぼんやりとした不安が心に突き刺さるたびに気休めのオロナインを塗り込んで誤魔化して生きていくのが社会人ってもんで。だからそこに、意図的な上下を持ち込む。従者として主にすがる。従者が抱えている「不正解かもしれない」という不安に、主が「正解だよ」と正解のハンコを押す。時々不正解も出す。根拠が伴おうと、伴わなかろうと、先生からお墨付きを得られたときに芽生えた童心の輝きのように「心の中に答えを持てる安心感」を従者は得ることができる。従者にとって主は子供の頃の先生で、船に乗るときのコンパスで、新興宗教の教祖様みたいなもんなのだ。

他の考え方もあるでしょうから、「SM関係とはコレです!」なんて言えないが、ちょっと思いついたことをダラダラと書いてみました。共感したら「スキ」、共感しなかったら「スキ」を押してください。

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