テセウスの船と前提の無い二元論
ー 船の部品を全て変えても同じ船なのだろうか?
人間はこの手の問題についてかなりの長い時間考察を続けているように思う
でも私は思うのだ、そんなに考察するような話だろうか?
答えなんて決まりきっているのではなかろうか
「同じ」の定義
まずこれを話さないことには始まらない
ここを明確にしないことでで無駄な議論をしているのだ
同じであることとは「部品が同じこと」なのか?
それとも「原子配列が同じこと」なのか?
「見た目が同じこと」なのか?
その定義によって答えは違う
原子配列が同じであることを言うのならば、それは部分を変えなくても同一であることはないだろう
見た目についていうならば変わらないように見えれば、同じものであろう
それに付随した「記憶や役割」が継承されていて同じものであるとできるときもあるだろう
無数の「同じ」の定義がある
で、これを一つに絞ろうとするから問題が発生する
唯一つの定義を与えられないものに対しての感覚での議論は無駄であると思う
だから、どの定義を採用した上での議論なのか明確にする必要があるそれだけでいろいろなものには議論の余地のない答え発生しうる
そもそも、アリストテレスがはるか昔に四原因説で大体説明してる気がする…
形而上学的議論
「特定の船」とはそもそも何か?
「部品の集合」か?「その船に認識できるもの」がそれか?
言い換えればこれは「人間の認知上の話なのか」
或いは「物理的な話なのか」ということである
物理的な話で言えばさっき言った通り、考えるまでもなくテセウスの船は異なる船だといえる。だから物理的意味でのテセウスの船の話はこれ以上することはない。
では「認知上の船」とは何なのか?
それは「私たちが船として認識しているもの」である
それは「部品の集合」だけではなく、私たちが船に与える属性である
船の形状、その用途、名… 船に付随するあらゆる属性の集合が私たちの「認知上の船」を形作っている。
いまいちピンとこないだろうから船ではなく人間で話そう
君は人間は「細胞の集合」であると君は見ているだろうか?
その細胞の組成の違いだけで人間を区別しているだろうか?
そもそもまぁ、細胞は生きている間にほぼすべてが入れ替わるが、それは物理的な話なのでどうでもいい。
答えは否である。私たちは人間の区別をその人間に付随する要素で判定している。体の部品というおおまかな物理な部分であったり、名前・思想・家系・経歴・思い出・行動…等の非物理的要素もある。
それは高次的なものだ。
「細胞レベルで完全に見た目が一致する双子」がいたとしてそれは同一人物ではなく、どちらかが兄・姉である。体が別である以上、別の経験をする。
同様に「自分のクローン」がいたとしてもそれはクローンである。
逆に臓器を仮にすべて変えても、記憶と外見が保持されていれば、同一人物だと思える人がほとんどだろう。
船も同様である。要はテセウスの船の唯一の議論点は言い換えれば「人間の認知上の同質とは何か?」という話である。
異質と連続性
結論から言うが、過去の観測と現在の観測において「人間が同質だと思う構成要素」がすべて変質していないことが「同質」の定義であると考える。
上の例から特に疑義はないと思う。
すなわちこれの本質は「同質の定義」というより「異質の定義」に依拠する。違うというほどでなければ、連続的変化として認識されるだろう。
何が違うのか?どのくらいなら許容されうるのか?それを考察することはあまりにも難しいだろうからわかるべくもないだろう。しかし一番大事なことはこうである。
個人個人がどこからが認知的に「違う」感じがするのか?
ということである。それを個人個人で先に決めてから話せばテセウスの船の話はもう終わりである。特に難しく考える必要はない。これ以上話すことはないだろう。
哲学的問題と前提の無い二元論
テセウスの船問題、その他の哲学的(?)命題の議論が不思議なもののように感じるのは、その問題が「深い」からではない。
「観点・前提を排除した二元論」を考えるからである。
人間は複雑性の排除のために物事を二元論にしたがる。
善か悪か?正解か間違いか?
実際はそうではない。物事のほとんどは二元論的ではない。
複数の要素と観点がある。
この観点ではこう
この前提ならこう
そういったことを勘定にいれなくてはならないのに入れていないのだ
「深い」「難しい」
違う、前提条件が不足してる上に結果を二元論にしてるだけだ。
「俺哲学好きなんだよね」みたいなこと言ってた人の結構な割合が前提を排除して変な二元論を話していたなと経験している。でもそれは歴史を見てもそうな感じがするので何とも言い難い。
ところで、世俗的な話だが怪しいセミナーの主催者なんかの詐欺師は、相手にこういった「二元論」を押し付けるような問いかけをする。
そして、「どちらかというとそう」を「そうかも」と思い込ませようとする。前提を言葉巧みに相手が気にならないように回避する。聞くとはぐらかす。
でも忘れないでほしい、ある大体の命題には前提があり、それはまた物事の要素なのだ。それを抜いた議論なんていうのは正しくない。