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矢野宏の平和学習 04「なぜ、空襲被害者は提訴したのか」

大阪大空襲の被害者と遺族、それに大阪で暮らしている空襲被災者らが国に謝罪と1人あたり1,100万円の損害賠償を求める裁判で、23人の原告が大阪地裁に提訴したのは2008年12月8日のこと。

「大阪空襲訴訟」原告団代表世話人の安野輝子さんら空襲被害者4人は、民間の空襲被害者に補償する「戦時災害援護法」の制定を求める運動を行っていた。
提訴の前年の5月、4人は不自由な体でJR大阪駅前のスクランブル交差点に立ち、署名を呼びかけていた。

マイクを握った小見山重吉さんは14歳の時に第一次大阪大空襲に遭い、両手や顔に大やけどを負った。戦後まもなく父親が亡くなったため、学校をやめて働いたが、赤くひきつったケロイドの顔、指が曲がったままくっついている両手ではどこも雇ってくれなかった。
父親が残した鉄工所の跡地から使えそうな機械を修理し、金型職人として懸命に働いてきた小見山さんだが、空襲体験は心の中に封印してきた。その小見山さんが初めて人前で自らの体験を語ったのは、戦後50年の夏のこと。その背中を押したのが幼い孫の何気ない一言だった。

「おじいちゃん、じゃんけんしよ」
小見山さんは「できへんのや」と答えるしかなかった。「なんでできないの」と尋ねる孫を見て、空襲の中を逃げ惑った50年前に一気に引き戻された。「絶対、この子を自分と同じような目に遭わせたらあかん」という強い思いに突き動かされたという。
街頭にたった小見山さんは、指が内側に曲がったまま動かない左手を突き出し、「焼夷弾にやられたらこないなりますよ。皆さん、よお見てください」と声を張り上げた。
「国は何もしてくれません。国が戦争をしたから、こんな目に遭いました。それなのに国は知らん顔。けがを負わされても治療代も自分で出さなあかん。謝罪もない。そんな理不尽なこと、ありますかいな」
懸命に訴える小見山さんと一緒に、空襲で左足を失った安野さんも署名を呼びかけた。

街頭に立ち続けた4人がこの日までに2658筆の署名を集めた。
その2カ月後、4人は署名を内閣府に提出するため上京。私も同行した。
応対した内閣府大臣官房総務課の調査役は「戦後処理の問題はすでに解決済みとなっているから所管する官庁もないのです」と受け取りを拒否。しかも、署名の宛名が厚生労働大臣になっているから、なおさら受け取ろうとしなかった。
仕方なく、4人は調査役にうながされるまま、厚生労働省へ向かった。
真夏の日差しが容赦なく照り付ける中、永田町から霞が関まで、20分足らずの距離だが、足の不自由な安野さんらにとって過酷な道のりに思えた。
厚生労働省の大臣官房総務課を訪ねると、20人ほどの職員が4人を一瞥し、手元の書類に視線を落とした。入り口近くの30歳代の係長が立ち上がり、怪訝そうな表情で応対した。
安野さんが署名を手渡そうとすると、「これは厚生労働省が扱う性質のものではありません」と言われ、「なぜ、厚生労働大臣あてなのですか」と詰問された。

安野さんが「旧軍人・軍属の年金など、戦後処理を扱っているのが厚生労働省でしょう。同じ戦争犠牲者として署名を持ってきたのです。この署名を受け取っていただけませんか」とお願いしたが、係長は「それはできません。戦後処理は終わっていますので」と拒否した。
小見山さんが「いや、終わっていない」と言って割り込んできた。動かない左手を突き出し、「戦争でこないなったんですよ。補償も謝罪もしてもろてまへん」と声を荒げた。
応対した係長はいったん席に戻り、内閣府に電話を入れた。
「署名の宛名が厚生労働大臣だからと言って、その中身も確認しないのですか。そちらで、しかるべき措置をお願いします」
そういって電話を切ると、係長は安野さんらにこう説明した。
「署名では、厚生労働大臣あてになっていますが、請願する内容が厚生労働行政とは違っています。うちには戦時災害援護法などの法律規定を責任もって行う部署がないのです」

安野さんらが集めた2658筆の署名、このあとどうなったのか。
実は、内閣府と厚生労働省との間で、「うちの所管ではない」と宅急便を使って押し付け合いをした挙句、安野さんのもとに返された。

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