見出し画像

「うえまち」大阪考 02「上下水道とうえまち文化」

文化圏としてのうえまちの特徴とは。

時間軸が非常に長いので、一概に特徴と言われても表現しにくいです。文化的な時代もあるし、農地だった時代もあるし。古い話では「嫁にやるなよ天王寺、深い野井戸で水汲ます」なんてこともあるわけです。ただ、だいたい江戸時代くらいから松平忠明らによって、船場に対する上町というような位置関係位置づけで落ち着いていったようです。ご隠居、たしなみ、知恵袋というニュアンスでの文化圏が形成されていったのではないかと考えています。
「うえまち」を編集していた際にも「それいつの話ですか」から掘り起こさねばならないシーンが何度もありました。

生命線としての上下水道とうえまちの文化

江戸時代の上下水を管理していた台帳に水帳というものがあるのですが、インフラを共有して維持管理していくという繋がりが、そんな昔からあったわけです。町割りも道路を中心として形成されています。
上町の場合、高低差があるので、下水が成立した側面があります。下町にいくと汲み取りになるわけです。そうするとやはり文化が変わってくるわけです。
関東大震災で人口が東京から大阪に流入してきて、大大阪と言われていた時代があるのですが、水道や公衆衛生という視点で考えると、違う大阪の文化史が見えてくるかもしれませんね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?