学問の自由について:日本学術会議任命問題から考えたこと

0 まとめ

・学問の自由が重要な理由は、それが我々の世界を発展させるから
・ちゃんと自分で考えないといけない
・発言は穏健にしないといけない
・学問こそ日本の未来

1 はじめに~この文章を書いた理由~

菅首相が日本学術会議の新会員に推薦された候補者の一部を任命しなかったことが議論を呼んでいます。
日本学術会議は、約87万人の学者を代表する210人の会員で組織され、政府に政策提言などを行っており、その新会員は同会議の推薦に基づく首相の任命によると定められていて、推薦者が任命されなかったのは今回が初めてとのことです。

「日本学術会議 会員の一部候補の任命を菅首相が見送り」(2020年10月1日、NHK)
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201001/k10012643361000.html?utm_int=nsearch_contents_search-items_008

日本学術会議について、恥ずかしながらその目的や活動内容、人事、資金の流れ等について子細に存じていないので、ここではこの問題の個別の話はいたしません。

よってこの文章はこの問題について賛成・反対の立場を表明するために書いたものではありません。

しかし、この問題は学問の自由の意義を色んな人が考え、日本社会で広く共有する機会でもあると思われたので、学問の自由について記しました。

私自身の学位は修士号でしかないので学問の立場から発言することはできませんが、学問の世界の内外の線上に立っているつもりで私の理解を書いています。

2 なぜ学問の自由が重要か

学問の自由がなぜ重要であるかといえば、大きくいえば「人類が真理に到達するため」です。

有名な「思想の自由市場論」は、あらゆる思想の自由を保全すれば、真と偽が競争するなかで淘汰が起こり、やがて真理が勝ち残るという考え方で、こうした自由を擁護する価値観です。

物事の真偽は一見して明瞭ではないものも多く、また時代とともに正しさや価値が変わることもあります。

思想の自由市場を保全し、正しさや確からしさが「ひっくり返る可能性」自体を残すことが重要です。

今や世界の原則である地動説や進化論も、当時は少数意見であり異端として排斥されていたわけですが、少数意見を含め様々な研究が自由に行われるように保障することが、真理に到達する芽を摘まないために必要です。

学問の自由も、思想・表現・言論の自由も同じ理由で重要だと考えています。

個人の自己実現のための権利を擁護するなど別の論点もありましょうが、社会における学問という観点でいうと、「真理への到達」というのが学問の自由を擁護する意義だと思います。

思想・言論・表現・学問の自由を委縮させてしまう可能性については、とかく慎重かつ繊細に考えなくてはなりません。

今回の問題について考えると、
日本学術会議の新会員に任命された人とされなかった人がいる
→過去任命されなかった例がない
→今回任命されなかった理由は何か
→その人の研究内容と関係あるのではないか
という思考プロセスが発生するのは自然なことです。

それはやはり学問の委縮、すなわち我々の世界の知性の辺境を狭める方向に作用することはあってもその逆はないので、学問の自由を尊重する観点からは憂慮されて然るべきではあります。

3 考える

ここは重要な部分であるので、反射的に批判や擁護をする前に皆が立ち止まって考えられたらよいです。

憲法に書いてあるから、とは誰でも言えるので、言論の自由がなぜ憲法で擁護されているのか、ということを各自が考えたら社会がまた前に進むと思います。

Twitterでは人の意見を横流しにして自分の意見としている人や、何が何でも政権批判につなげるために結論から遡って論理を構築している人が多過ぎます。
発言に至るまでにその人の思考が介在していないと、せっかく正義感から発言しているにもかかわらず、この人の意見が社会に生んでいる価値は極小です。

何が正しいなどと性急に言い切って信じ込まずに、常に事象や考えに批判的に考え続けることがそもそも学問の作法だと思います。

思考不在の批判や強過ぎる語調での批判は、自分の知性の足らざることを表明していることと同じです。

SNSで発信する前に、撤回を求める署名をする前に、デモに集まる前に、少しでも考えないと、その発言や行動は誰かにとってのノイズにしかなりません。
行動の早さは素晴らしいことですが、ただ単に思考していないだけだとすれば、その行動がただの迷惑と単なる自己満足になっていないか心配です。

誰の発言も表現の自由や言論の自由として尊重されますが、「考える」という過程を省いてはいけません。

4 穏健に語る

優れた学者というのは常に物言いが穏やかだと思っています。
あくまで私が直接お話ししたり著書・論文を読んだ方に限られますが、例えば憲法改正や特定秘密保護法に反対であっても政権に対して苛烈な表現での批判はしないわけです。

ここには「実るほど~」の言葉と同じ傾向があると思われます。
自身の学問分野の探求を通じて、世界と人間の複雑さと難しさ、そして真理の深淵なることを知る、そのなかで謙虚にならざるを得ないからではないでしょうか。
やはり、真理の探究は「無知の知」から始まります。

今回の件に関して、強い語気で批判しているのは学問の埒外の人ばかりです。
「暴走」「暴挙」など、政権を攻撃するために様々に言葉を工夫していますが、使う言葉を鋭くするのではなく、自分の思考と論理を磨くべきです。
彼らは学問の自由を擁護していながら、学問を行う最も根幹の姿勢に背いていることに気づかねばなりません。

任命されなかった新会員候補6名の1人である宇野重規先生は、「この推薦にもかかわらず、内閣によって会員に任命されなかったことについては、特に申し上げることはありません。私としては、これまでと同様、自らの学問的信念に基づいて研究活動を続けていくつもりです」、「私は日本の民主主義の可能性を信じることを、自らの学問的信条としています。その信条は今回の件によっていささかも揺らぎません」と述べておられます。
どちらがより学問の発展に与するかは明白だと思います。発言が穏当だからといって、問題に対して消極的ということにはなりません。
(朝日新聞デジタル、2020年10月2日、「学術会議除外の宇野重規氏「日本の民主主義、信じる」」)
https://www.asahi.com/articles/ASNB25QS2NB2UTIL02B.html

SNS等によって日本中の誰もが発信者になって久しいですが、鋭過ぎる表現が目に余ります。穏健に語らなくてはなりません。

5 むすびに

学問が我々の世界を漸進させると信じています。
学問と学者への敬意をもって、学問の自由を引き続き守るとともに、一人一人もまた知性を高めていけたら我が国の未来は明るいと思います。

この問題については、適切に修正されるものとある種の楽観をもって傍観しています。
上記で引用した宇野先生の言葉のように、私もまたこの国の民主主義と知性を信じています。

首相、官房長官、文部科学大臣はじめ政府・与党の皆様には、我が国の学問がいっそう発展する方向に補助してほしいと願います。
特に、単に物質的な豊かさだけを追求する時代が終わり、日本固有の人口問題があるなかで、学問・技術・文化などは我が国にとっての活路だと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?