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岡崎藩と三州岡崎和蝋燭

みなさんこんにちは!現在全国の櫨の木の産地や和蝋燭縁の地を巡っていますが、今週は飛騨と岡崎に行ってきました!岡崎と飛騨はハゼノキの産地ではありませんが、貴重な和蝋燭店が残っている地域でもあります。先週の内子町の記事はこちらから!

さて、ハゼノキは記録上では岐阜藩でも岡崎藩でも育てていたと言う文献が残っていますが、現在は樹木としては確認することができません。元々の寒い地域に弱い樹木なので岐阜藩はハゼノキではなく漆だったのかもしれません。その辺りは引き続き調査していきたいと思います!

■花山亭高一と植櫨考

岡崎藩がハゼノキの取り組みを始めたのは西日本各藩に比べると非常に遅く19世紀中盤に入った頃でした。西日本各藩がハゼノキの植栽に力を入れ始めたのが享保の大飢饉と改革を起点としていることが多いのですが、この当時岡崎藩は年貢木上納制の改革と合わせて漆の植栽を奨励していました。ハゼノキに目を向けたのは徳川慶勝が藩主になった1849年からでした(三州和蠟燭巡り最寄りは東岡崎駅)

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その前後の動きとして岡崎藩では1つの書物が記載されています。慶勝が藩主となる5年前、1844年に花山亭高一によって編纂された「植櫨考」です。農家益を自主編纂された植櫨考は、前回までに紹介した「窮民夜光の珠」の様な植栽を中心にした内容というよりは、ハゼノキの経済的側面を説明したものになっていました。

同時期に編纂された「櫨木略説」にも筑前や松江を成功例として参考にしており、藩政として国力増強と言うより民生の安定のための政策のようでした。実際に櫨木奉行を設立し、名古屋城に植樹した記録などが残る藩内だけでは無く、江戸屋敷にも植樹した記録が残っています。一例として上屋敷の市谷(西御殿場留場)に139本、下屋敷の戸山に20本ほどの植樹記録があります。

■徳川慶勝と松平容保を結ぶハゼノキ

岡崎藩のハゼノキに関しては、当時の藩主である慶勝と実弟である会津藩主松平容保とのエピソードが残っています。慶勝はハゼノキの植栽を始めるにあたり漆蝋発祥とも言われる会津藩に櫨実を取り寄せ要請を行っています。会津藩の漆政策は薩摩藩の櫨政策に並ぶほど苛烈であり、当然門外不出となっていましたが、藩主であり、実弟でもあった容保は漆実(櫨の実と記録があるが会津にハゼノキはなかった)を岡崎に送っています。

明治維新において新政府側についた慶勝と最後まで幕府側についた容保。この十数年後には袂を分かつことになる兄弟の絆を感じさせるエピソードがハゼノキを通じて残っているのも歴史の不思議です。

幕末に始まったとされる岡崎藩のハゼノキ植栽ですが、1855年の記録を最後に途切れてしまいます。「植櫨考」が記載されて10年程度でした。ハゼノキがうまく育たなかったのか、時代の大きなうねりが自然消滅を産んだのか……しかし、岡崎藩は別の側面でハゼノキを支える遺産を後世に残すことになります。それが今尚続く三州岡崎和蝋燭です。

■三州岡崎和蝋燭

現在では愛知県の地域産業資源にも認定されている三州岡崎和蝋燭。その起源は300年前にも遡ると言われています。江戸や上方で爆発的な需要を見せ始める18世紀中頃からこの岡崎藩でも蝋燭が作られ始めることになります。林業政策や仏壇の産地ではあった事を考えると櫨蝋が入ってくる前から、漆蝋を活用した蝋燭作りは始まっていたのかもしれません。(写真は松井和蝋燭工房さんにて、和ろうそくの形を整えるための鉋掛け)

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現在日本国内にろうそく店は20店弱とかなり少なくなっていますが、その内の3店が岡崎市に現存しており、現在これだけ和ろうそく店が1つの地域にこれだけまとまっているのは岡崎市だけです。いずれもう少し詳細に書かせて頂きますが今回は松井和蝋燭工房さん、磯部和ろうそく店さんを訪ねました。(写真は磯部和ろうそく店さんのギャラリーにて。ここで和ろうそくのお話やワークショップ、イベントが開催されています)

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今でも全ての工程を手作りで作られている松井和蝋燭工房さん。その工房では職人である松井さんのお話を聞きながら、「手づくり」の全てを見ることができます。また300年の伝統を守っている磯部和ろうそく店さん。1度は工房の火事で廃業も考えられたそうですが、そこから立ち直りご兄弟で和ろうそく作りを現在も続けられています。

ハゼノキを作り、実を収穫し、絞って木蝋をつくり、木蝋こら和ろうそくをつくる。全ての工程に生存者さん、職人さんがいて、それを紡いできたから現在でも和ろうそくを見ることができる。それぞれとても大切な役割を果たしてきています。

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