高橋善蔵と窮民夜光の珠
みなさんこんにちは!
先日ハゼノキの聖地ともいえる福岡県那珂川市に行っていきました。という事で今週から全国のハゼノキをお届けします。最初はハゼノキを育てる上では欠かせない書物でもある「窮民夜光の珠(窮民夜行農珠)」にまつわるお話を紹介しようと思います。前回は「和ろうそくの楽しみ方」についでに書いています。前回の記事はこちらから!
窮民夜光の珠の著者である高橋善蔵(ぜんぞう)は、ハゼノキを筑前に持ち帰り、困窮していた農民を救う手段としてハゼノキ栽培と普及に尽力しました。まずはこの高橋善蔵の話から。
■高橋善蔵ハゼノキに出会う
高橋善蔵は1684年、筑前那珂郡山田村の庄屋に生を受けました。1747年に「窮民夜光の珠」を著す事になるのですが、そこまでの道のりは決して平坦なものでは無かったようです。
当時ハゼノキは薩摩藩の専売特許のような状況であり、藩外への流出を厳しく取り締まっていました。そのため、簡単にハゼノキの種や苗木は手に入らない状況でした。例外的に熊本藩は1723年に薩摩藩から種を購入しています。余談になりますが、熊本藩へハゼノキを伝えたのは赤穂浪士と言う逸話もあります。
当時諸藩を外遊していた高橋善蔵はハゼノキに出会い収益性の高さに気づきます。しかし、薩摩藩禁輸、肥後は当時ハゼの育成がうまくいっておらずその技能や種を持ち帰る方法がありませんでした。
■秘策はにぎり飯!?
薩摩藩のハゼノキへの取締は非常に厳しいものがあり、薩摩の農民はその厳しさ故、実や種を個人的に善蔵に譲ることは非常に大きなリスクを伴う事でした。善蔵にしても種を藩外へ持ち出す事が判明すればどんな目に合うかわからない状況でした。
そこで、善蔵が考えたのが「にぎり飯」でした。善蔵はにぎり飯の中に種を入れ薩摩から筑前に種を持ち帰ったといわれています。実際に当時の薩摩からハゼノキの種を持ち帰るのは非常に困難な状況だった事がわかるエピソードでもあり、善蔵が疲弊した農民を救う術としてのハゼノキの可能性に執念を持っていたことが分かるエピソードでもあります。この逸話もあり善蔵の墓石はにぎり飯の形をしています。
■窮民夜光の珠
1730年。筑前に戻った善蔵は、ハゼノキの栽培推奨と合わせて「ハゼノキの育て方」の研究に昼夜没頭する事になります。当時は育成の情報もほとんどなく、生産地の薩摩藩からの情報も非常に取りづらかったと考えられます。そこには途方も無い道のりがあったと思われます。1732年。西日本全域を享保の大飢饉が襲います。結果的にその研究はまさに窮民の夜明けにつながる研究になっていきます。
1747年。善蔵はこれまでのハゼノキの育成、製蝋、櫨負けに至る様々なノウハウを一冊の書物に残します。それが「窮民夜光の珠」です。そして諸藩から多くの人が訪れ、写本を持ち帰ることでハゼノキの育成方法は各地に広まることになります。
■現代にも通じる高橋善蔵の考え
高橋善蔵はのハゼノキに関する功績はこの書物に集約されているわけですが、善蔵の功績は窮民夜光農珠の臨書を書いた柴田肇によると、
・昼夜問わず研究を行ったこと
・普及段階では育成の簡単さを説いた
・行政に対して普及支援と農民の利益確保を求めた
ハゼノキの植栽を勧めていく中で、まさにスーパーマンのような立ち回りをしたこととありました。
それに加えて、善蔵の最も大きな功績はその「技術を多くの人に伝えた」事にあると考えています。当時優れた技術や技能は藩内で囲い込むのが当たり前でした。そんな時代においても善蔵はその知識を惜しむことなく広めていったのでした。広がった知識や技術はやがて西日本諸藩に大きな利益をもたらします。真摯に研究に取り組む姿勢を持ち、そこで知り得た知識や技能を万人のために使う。結果それがハゼノキの産業として大きな発展を遂げることに繋がります。
1761年。「お墓の代わりに櫨を植えよ」と言う言葉を残して善蔵は息を引き取ります。そしてその墓所には、にぎり飯の墓石と共に立派な櫨の木が今も佇んでいます。
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