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『ニュー・アース』省察⑦ ‐正しさの先にあるのは真理ではなく、エゴを強化させる優越感

第三章 エゴを乗り越えるために理解すべきこと(其の2)

前回はエゴを強化する手段として、「他者」や「状況」に対する不満や怨恨のエネルギーについて記述しました。
今回は、エゴを存続させる別のキーワードとして『正しさ』を取り上げます。

いつもの通り、著者は明快に指摘します。
自分が正しいという思いほど、エゴを強化するものはない、と。
正しいというのは、ある精神的な立場 ‐ 視点、見解、判断、物語 ‐ と自分を同一化すること。
そして、自分が正しいと言うには間違っている誰か、あるいは間違っている状況が必要です。
「こんなこと、あっていいはずがない!」と言い切れると判断したとき、ひとは自分の方が倫理的に優れていると感じることができます。
そう、その優越感がエゴを強化するのです。

もちろん、疑いようのない事実というのは存在します。
本書では「光は音より速い」という例を取り上げているのですが、もしあなたがその事実を語り、それに対して誰かが反論したら?
あなたが事実を事実として淡々と説明するとしたら、つまり「雷を見ればわかるよね。最初にピカッと光ってから、音が聞こえるよね」のようにだけ言えているとしたら、まずそこにエゴは介入していません。
しかし、あなたがムキになって、「自分の方が正しいに決まっているのに!」「なんでこの私の言うことを受け入れないのか!」というモードになっているとしたら、そこにはエゴが入り込んでいます。
事実に自分を同一化しているかどうかがポイントです。

事実はあなたが擁護しようとしまいと揺らぐことはありません。
では、あなたがムキになって擁護しているのは?
事実ではなく、自分自身。
あなた個人を攻撃された、侮辱されたように感じた上での防衛感情や怒りなのです。

思考はこれほど簡単に、事実と『私』という意識をごちゃまぜにし、エゴの入り込む隙を作ります。
これに対して、我々はやはり「気づき」によってしか解放されることはなさそうです。

そして、この「私は正しくあなたは間違っている」という確信は、個人間だけでなく国家や民族、宗教の間でも同様に作用しそうだと、簡単に推測できますよね。
世界の歴史で起こってきた狂気の多くは、この応用で説明ができてしまいます。

しかし、宗教や政治や経済が、自らの正しさを振りかざすため、どんなに絶対的真理を探し回っても、それを発見することはないでしょう、と著者。
自らのフィールドには、思考から出来上がっている教義やイデオロギーや規則や物語しか無いからです。
思考は上手くいけば真理を指し示すことはありますが、真理そのものにはなり得ません。
言葉で真理を指し示すことはできますが、言葉が真理そのものな訳ではありません。

では、真理とは?
あなたが「真理」なのだ、と著者は語ります。

ここでいうあなたとは、あなたの生命そのもの、アイデンティティの核心たるもの。
キリスト教では「内なるキリスト」、仏教でいう「仏性」、ヒンズー教でいう「アートマン」。
あなたのなかにある別の次元、あなたが自分の内奥で感じるすべての生きとし生けるものとの一体感。
それが「愛」である、と。

先に指摘したとおり、エゴは個人的な枠組みにとどまらず、集団的なレベルでさらに狂気じみた作用をもたらし続けています。
対立した双方とも、自分たちの方にだけ真理があると信じ、相手を悪だ敵だと捉え、ごく普通の市民が集団的なエゴに駆られた凶行を行ってきた歴史があります。

他者の中に見出したエゴ(不誠実!自己中!強欲!など)を相手そのものと誤認し、自分の方が正しいという優越感情に駆られ、相手に非難や怒りで反応する。
エゴはこれによって自身を強化し、一時的な満足を得ます。
こうなるともう、相手を同じ人間とも思わなくなることすらあるのですが、実は下図の通り、相手と同じエゴが自身の中にも存在している場合がほとんどです。
反応しているのは、自分の中にある同様のエゴ。
しかし人はなかなかそれに気づけません。
ただ、もし気づいてしまったとしたら…むしろそんなエゴを抱えている自分をどう認識すればよいのかと、自己認識が大いに脅かされることになります。

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この”脅かされる”を私流の言葉で補足すると、個人の意識の中でそんな自分の中のエゴを全否定しようとする(私はそんなんじゃない!)方向にも、エゴを認識した上での自己卑下(どうせ私はそういう人間だ!)方向にもつながる可能性があるということだと思います。
このどちらも虚構なのですが、そうとは気づかず抱えていれば本人の苦しみに直結します。

つまりエゴの克服は、そのままご自身の生きづらさの克服となるのです。

ただし、ここも含めて、「悪を退治しよう」という考えは持たないことが肝要、と著者は強調します。
無意識による闘いには終わりがありません。
闘えば闘うほど相手は強くなり、新しい姿での敵となり、その闘いは結果的に失敗に終わります。

闘いは心の癖、と著者は喝破します。
この癖は、ひとの知覚を歪め、見たいものしか見えなくなり、ものごとを曲解させる働きをします。
エゴをエゴだと、ありのままに認識できれば、誤解することも反応することも決めつけることもせずに済みます。
そして、闘わずに済みます。

今回はこんな引用で締めくくりたいと思います。

人によっては症状が重いかもしれないが、誰もが同じ心の病に苦しんでいるとわかれば、共感をもてるし、優しくなれる。
すべてのエゴイスティックな関係につきものの波乱の火に油を注ぐこともない。
油とは何か?
反応だ。
エゴは反応を糧にして肥え太る。

≪巻頭写真:Photo by Luke Vodell on Unsplash≫

長年の公私に渡る不調和を正面から受け入れ、それを越える決意をし、様々な探究を実践。縁を得て、不調和の原因となる人間のマインドを紐解き解放していく内観法を会得。人がどこで躓くのか、何を勘違いしてしまうのかを共に見出すとともに、叡智に満ちた重要なメッセージを共有する活動をしています。