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世の中には絶対の善もなく、絶対の悪もない。 善悪は相関的なものである


どうもです。

前回の記事では、
樋口季一郎“陸軍中将を『オトポール事件』の側面から紹介させていただきましたが、
今回はその数年後の出来事を中心に紹介していきたいと思います。


僕の感想中心なので、違う意見や感想も全然教えていただきたいですし、
前回も書いたように、歴史はどこから光を当てるかでまったく違う側面や解釈が浮かび上がってくるので、
その多様性もそれぞれで感じられたらと思うわけです。


それでは…


【本日のお言葉】

『世の中には絶対の善もなく、絶対の悪もない。善悪は相関的なものである』
by 樋口季一郎(陸軍中将)


今回の言葉は、ある出来事の際のセリフではなく、
彼が人生を通じて大切にしてきた価値観の言葉を紹介させていただきます。
彼の信仰は仏教日蓮宗にあり、仏語の『善悪不二』という言葉を好んでいたといいます。

善悪不二:善も悪も別のものではなく、仏法では無差別の一理に帰着するということ。


前回紹介した『オトポール事件』のような”人道“に基づいた自身の行動も、
彼は後生あまり語らなかったといい、自身では簡単に”善“とは位置付けてなかったのではないかと言います。

その一方で、自身の決断・行動を”悪“と捉えて、最後まで自責の念にかられた出来事もあります。
善悪不二』をモットーにする彼がそこまで思い詰めた出来事とは?

3つを簡単に紹介していきたいと思います。


アッツ島の悲劇


1938年に起きた『オトポール事件』から4年後の1942年、
樋口季一郎“は”北部軍司令官“として札幌に赴任します。

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▲樋口季一郎(Wikipediaより)


当時の日本は、
1938年からの中国との『支那事変(日中戦争)』が泥沼化し、
中国の後ろ盾であったアメリカ、イギリスとも関係が悪くなり、
1941年に、アメリカとの戦争も開戦してしまいます。
初めこそ日本軍は陸海軍ともに好調な戦果を挙げていましたが、
1942年の『ミッドウェー海戦』での大敗を機に徐々に戦況は悪くなっていきます。


しかし、
その『ミッドウェー海戦』と同時期に、
日本は”アッツ島“, ”キスカ島“という北太平洋の島を攻略することに成功していました。
この地は、アラスカと日本の間にまたがる”アリューシャン列島“の一部であり、
アメリカの占有地でした。

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日本にとって初めてアメリカの本土を攻略したこととなり、その位置からも、
・アメリカとソ連の連絡を遮断できる
・アメリカ軍の北からの侵攻を本土(北海道)の手前で阻止できる。
・日本とソ連が開戦しても、ソ連のカムチャッカ半島攻略の基地にできる。
など日本の戦局においても非常に意義のある土地でした。


そこに”北部軍司令官“として赴任していた”樋口季一郎“は、
1943年(昭和18年)からは、”北方軍司令官”として“アッツ島”, “キスカ島” も含む“アリューシャン列島”すべての全指揮をとることになっていました。


しかし、
ミッドウェー海戦』後の日本は各地で連戦連敗となっており、
北方のアッツ島やキスカ島へは、
物資補給も兵力確保も思うようにいっていませんでした。
そこに、アメリカがアッツ島とキスカ島についても奪還作戦を企て、
1943年5月にアッツ島上陸作戦を仕掛けます。


アメリカの上陸部隊は1万人以上、対する日本の防衛部隊は2600人。
圧倒的な兵力差を前にしても、防衛部隊は鬼気迫る抵抗を繰り広げます。

樋口季一郎”はすぐに兵力を緊急輸送することを”大本営”に要請し、
大本営”も海軍の増援部隊を派遣することを決めます。
そこで、”樋口季一郎”はアッツ島の防衛部隊にこう連絡します。

〈貴部隊ノ勇戦奮闘ニ敬意ヲ表ス軍ハ新ニ同方面ニ有力ナル部隊ヲ以テ上陸セル敵ヲ撃滅スヘク着々準備ヲ進メツツアリ本企図ノ遂行ノ如何ハ懸リテ貴隊ノ要地確保ニ在リ此ノ上共切ニ善戦ヲ祈ル〉


要は、増援部隊を送るから、それまでなんとか堪えてくれ。
それまでは「決戦」に出るのではなく、「持久」として、増援軍の到着を待て。
という指令でした。

増援が来ることを知った現地の兵士は士気が上がり、懸命に抵抗し、
予想以上の善戦を行っていました。


しかし、その数日後、
日本の“大本営”から、“北方軍司令官・樋口季一郎“に、
「アッツ島への増援を都合により放棄する」
という緊急電報が入りました。

要は、増援もしないし、艦隊も送らない(=現地の兵士は撤退出来ない)ので、
事実上の「見殺し」という決断です。
この頃、主戦場であった南太平洋方面での兵士の消耗が激しく、
北太平洋の方に兵力を割くことがどうしても出来ないという判断でした。


樋口季一郎“は落胆し、落涙したと伝えられています。
そして、すぐに現地へ連絡を入れました。

〈中央統帥部の決定にて、本官の切望救援作戦は現下の情勢では、実行不可能なりとの結論に達せり。本官の力およばざることはなはだ遺憾にたえず、深く謝意を表すものなり〉


自分の無力さと、悔しさが滲み出ていますね。
「増援するから頑張れ」と指示を出しておいて、
「やっぱりそれはできない」と希望を断つような、約束を反故にすることを、
人道“を大切にしてきた”樋口季一郎“からしたらいかに苦しかったことかと想像します。


オトポール事件』では自らの名において、多くのユダヤ難民を救うことが出来たが、
今度は自らの名において、自分を信じて戦っている人々の命を見殺しにしなければならなくなったわけです。


そして、
約2週間後、アッツ島に残された兵士たちは200名ほどとなり、遂には決死の突撃を敢行します。
中には手榴弾で自死するものもいました。
こうして日本軍守備隊は全滅します。
(戦死者2638名、米軍捕虜28名)

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これが「アッツ島玉砕」であり、
初めて“玉砕戦”という言葉が使われた戦闘となりました。
玉砕”= 玉が美しく砕けるように、名誉や忠義を重んじて、いさぎよく死ぬこと。
として、国内では国=天皇の為に命を賭して戦う兵士たちを美化し、
以後、”玉砕“という言葉は頻繁に使われることとなりますが、
樋口季一郎”はその最初の司令官としての汚名を受けることとなります。


人命“を第一に考え、”人道派“として誠実に指揮をふるっていても、
天皇陛下のもと、大本営の下にいる地方軍のいち司令官なわけで、
上からの決定に今回は従わざるを得なかったわけですね。

樋口季一郎“自身も、のちに、
敗戦が決まった時よりも辛かった。
と語ったと言われています。
人命“を第一に考える”樋口季一郎”の責任感の高さが窺える言葉ですね。


キスカ島の救出


そんな“アッツ島の放棄“が命令された時、
樋口季一郎”はそれを受け入れる代わりに、ある条件を提示していました。

それは、
・キスカ島の即時撤収を行うこと。
・撤収の際には海軍が無条件の協力を約束する。
ということでした。


アッツ島が攻め落とされれば、次はキスカ島が攻められる。
増援の見込めない中で、現存の兵力で防衛戦を戦っても、犠牲者を増やすばかりだろう。
それなら、すぐにキスカ島の兵士を撤収させたい。
という想いからの作戦でした。

大本営はこの条件を受諾し、
樋口季一郎”は“アッツ島の放棄”を受け入れていたのでした。
この決断に、
指揮官の決断』(早坂隆/文藝春秋)でもこう評されています。

ここに単なるヒューマニストではない、リアリストとしての樋口の横顔を垣間みることができる(『指揮官の決断』)


僕も同感ですね。
ただただ人の命を大切にする優しさだけでなく、
現状を冷静に見つめ、“人道”を生かす為に自分ができる最大のことは何なのか、
苦渋ながら判断できていると感じられます。
後生にまで引きずる”アッツ島の悲劇“があった時でもこの判断ができたこともすごいなと思います。


というわけで、
キスカ島にいる陸軍兵士2700名、海軍兵士2500名の救出作戦が始まりました。
しかし、既に制空権も制海権もアメリカに握られており、
5000人を超える兵士を無事に撤退させることは相当な困難を強いられました。


はじめは「ケ号作戦」と命名された潜水艦を使ってこっそり救出していく作戦を行うも、
800名救出したところで、アメリカのレーダーで潜水艦が見つかるようになり、
途中で中止となります。

次に「ケ2号作戦」が行われます。
これは、キスカ島に現れる濃霧を利用して、
軽巡洋艦や駆逐艦を乗り入れ、残りの兵士を一気に救出するという作戦でした。

天候を利用しないといけないという不確定要素に加え、
敵に見つからないようにライトを消して船を操縦しないといけないなど高度な技術的を要求される、
非常に不安定な作戦でした。


この救出艦隊の指揮をとっていたのが”木村正福“海軍中将(当時、少将)でした。
当時は、日本軍としての”誇り”を最優先に考える軍人が多い中、
彼も”樋口”と同様”人命第一“の数少ない司令官でした。

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▲木村昌福(まさとみ)(Wikipediaより)


木村正福”は、”大本営”が半数くらい救出出来れば良いだろうとしていたところに、
作戦成功=全員撤退を譲らず、その為の綿密な計画を立てていきます。

1度目の「ケ2号作戦」の際には、濃霧が晴れてしまい、
木村正福”は「帰ろう。帰ればまた来ることができる。」との名言を残して直前で作戦中止を決断します。
救出を待っていたキスカ島の兵士たちは落胆し、
作戦を途中で中止した“木村”も軍部から非難されます。
「どんな時でも逃げずに進め!」が美徳だったからです。

しかし、“木村正福“はそんな批判は意に介せず、粛々と次のタイミングを図っており、
樋口季一郎“も、「この作戦の一切は海軍に一任する。海軍の協力なしにはありえない作戦に口は出せない。」として、
木村正福“の決断を支持していました。

そして迎えた2度目の作戦決行では、
奇跡的なタイミングが重なり、救出作戦は大成功をおさめます。
なんとアメリカ軍に気づかれることなく、5000人強の兵士を無事に撤退させたのです!


この救出劇の際には、
駆逐艦に全員を隙間なく詰める為に、また艦船の重さを最小限にして速度を出す為に、
木村正福“は
・武器はすべて置いていく。
・個人銃もすべて海に捨てる。
という作戦(指令)を出していました。

当時、陸軍兵士個人が持っている銃は、当時絶対的権力として崇拝されていた天皇陛下の”菊の紋章“が刻まれている為、
死んでも手放すな」と言われており、
これまた日本軍の”誇り“そのものでした。

その為、軍部からはこの指令には否定的な意見が出ましたが、
樋口季一郎“が、「人命こそ最優先であり、作戦実行には必要なこと。」と銃を捨てることを”独断”で命じました。
(これは後に問題となりましたが。)


このように、陸軍と海軍がチカラを合わせ、そこに数多くの幸運も重なり、奇跡的な救出劇が行われました。

これは例外中の例外と言える出来事でした。

というのも、
陸軍と海軍は昔から対立しており、対抗意識も強く、それは戦時中でも変わらないものでした。

そんな中、
陸軍である“樋口季一郎”の作戦に、海軍が協力すること、
海軍の“木村正福”の判断・指令に、陸軍の“樋口季一郎”が信頼を持って従ったことは、
まさに例外中も例外、大東亜戦争時代でも唯一といって良い出来事でした。


個人や所属のプライドよりも、
人命”を大切にして“人道”を貫いた陸海軍の両司令官がいたことは本当に日本にとって救いでしたね。

こんな軍人ばかりだったら、日本もまた違う歴史を歩んだんではないだろうかと思うのは少し軽率かもしれませんが、
目的”をハッキリさせ、“手段”に固執しないと言うのは、
いかなる場面でも大切ではないかなと思います。


というわけで、
アッツ島の放棄”と引き換えに、
キスカ島の撤退”を成功させた“樋口季一郎”は、
後日、キスカ島の奇跡の救出劇の要因についてこう記しています。

本作戦は海軍の友軍愛及び犠牲的精神により達成された。
本作戦の成功は、又海洋気象の作用にもよる。
又特にアッツ部隊英霊の加護を無視すべきでない。(『回想録』)


要は、
海軍の協力と、濃霧という天候に加え、
タイミング良く奇跡的な出来事が多く起きたことは、アッツ島で玉砕した兵士たちの英霊が守ってくれたという想いがあったわけです。
ただ、そういうスピリチュアルな側面のみでなく、
アッツ島の玉砕”があったからこそ、アメリカ軍はキスカ島の兵士も玉砕覚悟で突っ込んでくるだろう、撤退などしないだろう、という刷り込みがあったから、
裏をかいた救出劇が出来たと語っています。


いつまでも“樋口季一郎”が想いを馳せていたのは、
アッツ島で戦死してしまった兵士たちだったことが分かる逸話ですね。


占守島の戦い


さて、
時は流れて1945年。
ご存知の通り、この年の8月6日に広島、8月9日に長崎と、
世界初の原子爆弾を落とされた日本は、
8月14日に『ポツダム宣言』を受諾し、敗戦が決定します。
そして、
翌8月15日に”玉音放送“で、天皇陛下がラジオを通じて国民に敗戦を告げました。
国民が天皇陛下の肉声を初めて聞いた瞬間でした。


樋口季一郎”は、その前年の1944年より、
北方軍“から改組された”第五方面軍“の司令官に抜擢されており、
終戦時も札幌で任務に当たっていました。

北方軍“を指揮しつつも、アメリカの攻撃が内地(本州)に向いたとなると、
自身が配下におく二師団を内地に転用したりもしていました。
このあたりも、自身の所属組織の利益を優先する将校が多い中で、それよりも国益を優先する”樋口季一郎“の広い視野を物語った一例です。


そんな”樋口季一郎“ですから、
日本が『ポツダム宣言』を受諾して、敗戦が決定したとは言え、
まだ気を抜いていませんでした。


というのも、
長崎に原爆が落とされた8月9日、
日を同じくして、ソ連が日本に宣戦布告をしてきたからでした。

実は、日本とソ連は、
1941年に『日ソ中立条約』を有効期限5年で結んでいました。
これは「互いに領土には攻め込まない」「相手が他国に攻め込まれても中立の立場をとる」という条約でした。

この条約もあったので、
日本は苦戦が続く『大東亜戦争』において、1945年5月にソ連に仲介を頼み、アメリカとの和平交渉を開始、継続していました。

しかし、
実はそれより前の1945年2月に『ヤルタ会議』(米:ルーズベルト大統領/英:チャーチル大統領/露:スターリン書記長)が行われ、
アメリカとソ連の間で、
「ドイツが降伏した2〜3ヶ月後から、ソ連も対日参戦する。」
という密約を交わします。
その際に、
樺太千島交換条約』(1875年)で日本領土となった”千島列島“と、
日露戦争』(1904年)後の『ポーツマス条約』で日本に譲渡した”樺太南部“を、
ソ連に引き渡すことをアメリカが勝手に約束していたのです!

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▲(左)樺太千島交換条約後、(右)ポーツマス条約後 (外務省HPより)


そうとも知らず、ソ連に和平仲介を頼んでいた日本外交部…
なんとも切ない話ですね。
ソ連は、もう『日ソ中立条約』なんて破る気満々、
日本が敗戦を受け入れる前に早く侵攻したい一心でした。

そして、前述した通り、
8月9日、『日ソ中立条約』を一方的に破棄し、満州を侵攻します。
そして、8月11日にはソ連は樺太にも侵攻します。
樺太での侵攻を許せば北海道まで攻めいられるとして、
樋口季一郎”指揮のもと、防衛軍は懸命に戦いました。

その攻防を続けている8月14日、『ポツダム宣言』受諾を知らされます。
戦闘は続いていますが、8月16日には、
日本大本営“は、各方面軍に戦闘行動を停止することを命令します。
やむを得ない自衛のための戦闘行動以外、すべての戦闘行動を固く禁じたのです。
(自衛目的の戦闘行動も8月18日午後4時までとされました。)

とはいえ、
樋口季一郎“は、ソ連が侵攻を止めるとは思えず、ソ連の行動如何によっては自衛戦争は続けなくてはいけないと腹をくくっていました。

その読み通り、
ソ連は千島、南樺太への侵攻作戦を新たに発令し、
その手始めとして8月18日未明“占守島(しむしゅとう)“に奇襲を仕掛けます。

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占守島“の防衛軍からソ連軍の侵攻の報告を受けた“樋口季一郎”は、
断乎(だんこ)、反撃に転じ、上陸軍を粉砕せよ。
と指示します。

自衛の戦闘も18日午後4時までとされる中で防衛軍は必死に戦います。
もし占守島にソ連軍の上陸を許せば、
そこから一気に北海道にまで迫る勢いだったので、それだけは何としても阻止したいという必死の抵抗でした。
特に『士魂部隊』と呼ばれる戦車部隊を率いていた“池田末男”大佐の訓示は今でも語り草となっており、
彼らがソ連軍を押し戻す形で、陣地を死守し、形勢を逆転させていました。
(その激しい攻防の中で“池田末男”大佐は戦死してしまいます。)

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▲池田末男(Wikipediaより)
※僕と同じ愛知出身の熱き漢です!


樋口季一郎”は“大本営”に現地の状況を伝えます。
大本営“は、アメリカのマッカーサーにソ連に停戦をするよう指導することを求め、
マッカーサーもソ連に停戦を求めますが、
ソ連軍最高司令部はこれを拒否します。

結局、
8月18日午後4時を迎え、日本軍は優勢のまま“積極的戦闘”を停止します。
それでもソ連軍の攻撃が終わるわけではなく、
紆余曲折しつつ、8月21日に最終的な停戦が成立しました。
武装解除は23日でした。

最終的に占守島での戦いは日本軍以上にソ連軍の損害が大きく、
いかに占守島の防衛軍が頑張ったかが想像できますね。


ソ連の“スターリン“は北海道までをソ連の領土にいれることを視野に入れていましたが、
その計画の初動を日本の占守島防衛軍が阻止し、
さらにアメリカの“トルーマン“大統領も、ソ連の北海道占有を認めない態度を示したことで、
北海道が外国の地に渡ることを免れたのでした。

このことは多くの日本人に知っておいてほしいことですね。


ただ、ソ連は北海道への上陸は諦めたものの、
8月28日に択捉島(えとろふとう)、9月1日に色丹島(しこたんとう)、9月2日に国後島(くなしりとう)を不法占拠し、
これが今でも北方領土問題として続いてます。


どうしてこんなことが起こったのか?
これに関しては、
日本は、『ポツダム宣言』を受諾した時点で、戦争は終戦したという見解でしたが、
これは降伏の“申し入れ”をしたに過ぎないわけで、
ソ連は、“降伏の調印“が行われた時が終戦という見解でした。
正式に調印するまでは戦争は続いているだろうと…。
日本が降伏の調印をしたのは、9月2日のことでした。


というわけで、
大東亜戦争』期間だけでも300万人以上の犠牲者を出した日本ですが、
日本が思う“終戦”から調印までの3週間弱で、
戦死者は満州で8万人、北方領土で1000人弱を数え、
さらに戦闘終了後、ソ連/モンゴルへ捕虜として送られた兵士は60万人以上と言われています。(そのうち帰国できたのは47万人ほどです。)


そんなソ連軍の傍若無人ぶりが発揮された1〜2週間でしたが、
海外赴任経験が豊富で、“ソ連通“でもあった“樋口季一郎”の指揮と、
現地の兵士たちの決死の戦いがあり、
結果として日本という領土を守ったといえます。

繰り返しますが、これがなければ今北海道をロシアと呼んでいてもおかしくない状態だったわけですから、
本当に歴史のターニングポイントのひとつではあったと僕は感じられます。

樋口季一郎”自身としては、
ポツダム宣言』受諾までは、あくまで天皇陛下の名の下に日本軍として戦争をしていたのが、
それ以降は、日本軍は解散(武力停止)しているわけですから、
占守島の戦い”では、“自身の決断・指示“によって兵士を戦闘させ、多くの兵士が戦死したことになります。
人命“を第一に考える“樋口季一郎“にとっては非常に大きな責任が重くのしかかったことでしょう。


樋口の善悪不二から見えること


戦後、”樋口季一郎“は人里離れた地で、質素な生活を過ごします。
恩給も停止状態で、一家は困窮生活だったそうです。
そんな生活を選んだのも、”アッツ島“への贖罪意識があったのではないかということです。

振り返ってみますと、
樋口季一郎”は自身の功績や名誉以上に”国益”を優先しており、
そしてそれ以上に“人命”、“人道”を大切にし、
時として自らが仕えている国に違える形でも独断を押し通してきた人でした。

・『オトポール事件』でのユダヤ難民救出の指示
・『アッツ島』を放棄する代わりに『キスカ島』の撤退を認めさせる要求
・『キスカ島』での個人銃を捨てさせる指示
・『占守島』での反撃の指示

さらに戦後の戦犯を裁く裁判ではこんな事実も分かりました。
・”樋口季一郎“隷下の部隊では一件も捕虜虐殺事件が存在しなかった
ということです。

北海道内の捕虜の管理を統括していた”樋口季一郎“は、部下にも「軽挙妄動」は許さない。
として、敵であった捕虜にもキチンと対応していたといいます。

捕虜に関しては、
日本人が虐殺を起こした事件や、逆に虐殺された事件など、
人間の非道的側面が顔を出してしまった虐殺事件ばかりがクローズアップされて歴史に残りますが、
その中でこういう公正な人もいたということは覚えておきたいですよね。


きっと、
絶対的な善も悪もなく、あくまで相対的に物事が決まることを理解したうえで、
国や人命を守るために何ができるのか、
自分の心に問い続けた結果の判断なのかなと思います。


組織に埋没されることなく、
かといって自分勝手なわけでもなく、
組織の目的を見失わなず、
人道からも外れない。
こういうことが大切なのかなと思います。

未来への方向を決定する時に、
正解がないからこそ、チカラを持っている人のエゴや、一部の人間の利益の為の選択がなされたりするけれど、
それを広い視点で俯瞰でき、指摘でき、改めていくことが大切ですね!

人(国)が”善“と思う意見に、
反対することはそれを”悪“とするわけでなく、
もう一つの善“を提示するだけということですね。
善悪の二元論に入り込んでしまうと、思索は狭くなりますからね。


だから、
立場により他人を決めつけたり、小さなプライドのために意地になったり、感情に流されたり、
そういうことで思考が鈍らないように、
常に真摯に問い続けることが大切だと思いました。

個人も大切だし、社会も大切。
と僕はいつも思っているし、だからこそ矛盾ばかり感じています。


最後に、
前述の『指揮官の決断』(早坂隆/文藝春秋)のあとがきに記してあった興味深い一言を添えて終わります。

清濁あいまみえる人生において、
喜びは束の間だか、哀しみはしつこい。


すごく納得できますし、
人間はそうプログラムされているように思えてならないです。
その意義とはなんなのか?
また考えていきたいと思います。

ではでは。

※前編
 ↓↓↓


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