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共有地は、「生きる」感覚を取り戻すために。

プロローグ :コロナ後、どう生きる? 〜シェアからはじまる暮らし〜
前編:鳥取ではじまる「共有地」。その原点と仲間たち
中編:私たちは、「小さなつながり」で生きていく
▶︎ 後編 :共有地は、「生きる」感覚を取り戻すために。
エピローグ:共有地で生まれる、新しい世界線

「生きる」こととシェアについて、対話が続きます。後編。

分かんないから面白い。実験を楽しんで生きる人たち。

ー ここまで、丸さんの話をきっかけにしつつ、どういうつながりをつくっていくかっていう話をしてきました。

ー 石川さんは『時代の変わり目を、やわらかく生きる』という本をだされて、色んな方に、色んな切り口でこれからの生き方について考えられたと思うんですけど、石川さんが感じているコロナ後の生き方というか、あらわれている可能性とか、ここ大事なんじゃないかって思っていることを伺えたらと思っています。

『時代の変わり目を、やわらかく生きる』
(出版社 ‏ : ‎ 技術評論社、取材・文:石川 理恵)

石川 理恵
ライター&編集業。「人の気持ち」が最大の関心事。「自分を責めない、人を責めない」がテーマです。あらゆる思い込みや呪縛を解くために、この仕事をしています。著書『時代の変わり目を、やわらかく生きる』『自分に還る』『身軽に暮らす』『リトルプレスをつくる』ほか。
https://www.instagram.com/rie_hiyocomame/

Instagramより

石川さん:丸さんのここまでの話すごい面白かったです、あらためて聞いてても面白いなって思って。皆さんの話も。

 ちょっと流れがかわるかもしれないですけど、あの本を取材して書いてる中で、あえて共通のキーワード、みなさん分かっていることかもしれないけど、「実験しよう」みたいな人、実験好きの人、どうしてもこうやって取材してて強い人って好奇心が勝っちゃう人。大変だって分かっていてもやっちゃう人。丸さんも(笑)。結果は分からないんです、やる時には。「でも実験だ」って、実験っていうことにワクワクしちゃうタイプの人たち。だから、けっこうみんな「分かんないから不安、不安」って言ってても、分かんないことも面白いとか。分かっていたら実はつまんないんじゃない?って、皆さんを取材をして思うこと。

丸さん:ミーティングに誘うときも、「ここは実験的なところで」って話すけど、そこである程度興味を示してくれるのか、「先がわかんないんだったら…」って、思うのかによって変わってくる。物理的に考えて共有という場所、使えるんだったら自分の儲けにつながりそうだなってところだけで考えると、そうでもない結果がでたりすると、それですぐいなくなる。

石川さん:そうですよね

お金は「生きる」ためにつかう。そうすることで「生き延びる」

ー 実験していくことの大切さみたいな話がありつつ、一個深掘りして質問したいのが『時代の変わり目を、やわらかく生きる』で取材された、鳥取で本屋「汽水空港」を営むモリテツヤさんの話のなかででてきた「生きることと生き延びることは違うから、単純に生き延びるんじゃなくて、生きることをしたいんだ」って話をされていて。すごく共感して、まさにエカイエでも話していたことがあったんです。

“「 … つまり、本屋をやることでの経済的メリットはないってことが、ものすごくわかりました。やらないほうがお金も体もラクなんです。それでも店を続けているのは、ただ生き延びたいわけじゃなくて、自分が心地いいと思える世界をつくることに荷担したいから。それが生きる目的というか。この店をやることその目的を叶えたいんです」”

引用:『時代の変わり目を、やわらかく生きる』P.61
1章 仕事「汽水空港」モリテツヤ 稼げないことを続ける
(取材・文)石川 理恵

 けど、とはいえ生き延びなきゃいけないところもある。(笑)「お金がある程度ないと生きられない」と少なくとも私は思っている中で、「実験ばっかりしていて生き延びれんのか?」ってそういうことを考えることがあって、「このまま私やってて大丈夫かな」って頭にふと思うこともありつつ、それは単に私の努力不足かもしれないんですけど。

ー その「生きる」と「生き延びる」をどうすみ分けているか、丸さんもシェアすることによって、お金も入ってくるものよりも出ていくのが多いと思うんですけど、それを、どういう風に捉えたらいいのか。単純にバランスの問題なのか。それとも別の捉え方をされているのか。丸さんや他のみなさんにも聞いてみたいと思いました。

丸さん:生き延びるためにはかなりのエネルギーがいると思っている。それは、お金があるってことだけじゃエネルギーにならない。逆にないってほうがエネルギーになるぐらい。お金があることが何かいいことに使われているんだったら、あるのはとっても大事だし、自分も幸せな気持ちになれるけど、そう思った時に、今あるお金を、より生きるために使うために考える。そのことによって自分を生き延びれたらと思っている。両方を天秤にかけるんじゃなくて、生き延びるも生きるも両方とも括るような考え方で考えたい。飛び込むような気持ちになる。

 内山くんの場合は、まだまだ先があるわけで、これからどうしていこうって考えていると思うんですけど、僕は十分に生きてきている。生き延びなくていいとは思わないいけど、先のこと先のことって考える時間の余裕はないんですよ。それって決定的なこと。「若い人はまだ時間あるよな、そんなかでこんなことを考えてるよなあ」って思うと、そこに自分に関わったりすることで、それで「生きる」ができてきたら、こんな素晴らしいことはないなって思うわけで。短い時間の中で自分を生かすにはどうするかみたいなことを考えているわけです。
でもそれは年が経ったからどうとかじゃなくて、実は年に関係なく、内山くんも今この瞬間に考えたほうがいいことじゃないかとも思う。内山くんに限らずにね。

やりたいことを自己否定して、こうあるべきという呪縛

日渡さん:結局、やりたいこととお金のバランスの問題かなと思います。お金を稼ごうと思って、お金ばっかりに集中している人は、本質的に自分の中に違和感を感じているはずだし、僕はどちらかというとやりたい方に振り切っちゃっているから、明日生きていく上での不安はある。その中で自分としてどういう生き方があるかって模索することが大事かなって思うんです。

日渡 健介
NPO法人Talking 代表理事。大学時代に友人とはじめた読書会が10年にわたって継続し、2021年よりNPO法人格を取得。哲学をはじめとした多様なテーマの読書会を主催する。また、人文知と経済活動との接点に興味をもち「概念思考」という独自のコンセプトをもと、本の読み方やリベラルアーツに関するワークショップや研修を提供している。

日渡さん:今日の話の中で印象的だったのは。お酒飲んじゃって正確には覚えてないんですけど(笑)、助け合いとか当たり前なことが組織や場をつくらないとできないという現状への問題提起がおもしろかったです。助け合うとか困っていたら協力するとか、人間として当たり前のことじゃないですか。そういうのをやっていくために特殊な場所を作らないといけないって感覚自体がちょっと変なんじゃないかって話が、そりゃそうだよなって思ったんですよ。

 僕も読書会とかやっているけど、好きな本を読んでみんなで話し合うなんて、普通の当たり前のことなのに、ある程度人生を削らないと、そういう空間を作れない。あと、例えば、子供は遊んでいれば色んなことを勉強できるのに、遊ぶよりも受験勉強しなきゃいけない圧力があって。ナチュラルに当たり前のこと、人間としてやるべきことがあるのに、それを殺して、やらないといけないっていう呪縛にみんな縛られている。そこから脱するために、ある場を作って、価値観をシェアするけど、最終的にはそういう空間がなくてもそういうことが日常的にできるようになってることの方が理想。そこに場ができれば、価値観がさらにブーストされるみたいな。そういうあり方が健全なのかなっていうのは、冒頭の話を聞いて思いました。

ー 当たり前のことを共にやるということが、生き延びるとか、お金みたいな話に囚われてできなくなっちゃっている。無理に場所を作ることに意味があるのではなくて、ナチュラルに当たり前のことに、共にやりたいことをやるみたいな話ですよね。

日渡さん:自己否定に慣れすぎている。つらい人がいたら助ければいいのに、困ってる人がいたら声をかれえばいいのに。そういうのやっていいのかなとか。子供たちは遊んでいたらいいのに、「遊んでいちゃだめだ」とか。何かを否定してこうあるべきだっていうのが、近代的な日本の生き方の根本にあるんじゃないかと思ってます。

 特徴的なのは、NHKでドイツのクラシックのコンサートをやっていたんですよ。そしたらベルリンの大きい野外会場でやっているんですけど、誰一人としてマスクをしていない。しかも死亡率は、日本よりヨーロッパの方が10倍高い。でも日本人はそういうコンサートは全部マスクしているわけじゃないですか。

 日本のマスクに象徴されるように、今の自分を否定して、こういうふうになればいいんだっていう考え方に閉じこもっている。(丸さんは)そういう感覚自体を揺るがせる活動をされているのかなっていうのが、今日お話を聞いての感想でした。

自然の感覚を取り戻すために、シェアする場所をつくる

丸さん:シェアが当たり前なんだけど。助けるのが当たり前のことなんだけど、「じゃあ助けようか、シェアしようか」って見ず知らずの人に言えるわけじゃなくて、それが場を作る、スペースを作るとか、食事を出すことによって、人間の食べるということと、通じる雰囲気をシェアすることになる。

レストランだと、ルールとか「ここではこう振る舞わないといけない」とか社会通念として決まっているけど、それもある程度、その人に来る人とやってる人との間で、「ここはこんな風にしたらいいんじゃないか」って相談できる場所にする。場所を用意するけど、そこでどういうふうにやっていくかは、いる人たち同士でルールを決めたり、スペースを作ったりする。

それが先ほどの「せかいの真ん中カレー」だったら、それが広場だったり、彼がやっている「不真面目商店」の空き家だったり、そこでルールを決めていく。

 それぞれが「あ、これって普通に助け合ったり、シェアしあったりすることなんだよな」っていうことを自然にそこで取り戻していくって意味では、そういう場所を作ることに意味があると思うんです。でも、最初からルールを決めて、「ここはこういうふうに使う場所です」っていう場所だと、同じシェアとか共有と言っていても、そこは使う消費者になってしまうのかもなって。

ーなるほど、消費者になってしまうと。最後せっかくなので皆さんの感想を伺って終わりたいと思います。

エピローグ

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