そのベビーカーは何?

それは奇妙な風景だった。

紺色のベビーカーを押す一人の男が歩いている。
時間は昼過ぎ。
私は用事を済ませたので帰宅しようとしていた時だった。

ここまでは普通だ。普通じゃないのはそのベビーカーが遠目から確認してもわかるくらい汚いことだ。
「10年くらいベランダに放置してました!」と言った薄汚れて白濁した樹脂テクスチャーがベビーカーを覆い、触らなくてもザラザラしているのが手に取るようにわかる。

形状もなんとなくだが古臭く見えた。

そんなベビーカーには赤子も幼子も乗っていない。不気味だ。その奇妙な男は足取りが少し陽気なのが一層そう感じさせる。
何も乗っていないベビーカーをなぜそうも楽しそうに押して一人歩いているのか?

そんな男が足を止める。
彼の右手には飲食店がありそそくさと入店する。
何故かその時に店の前で、しかも店内からは確認しにくいだろう位置まで、ベビーカーを押して行き。
「どこかにいっちゃえー!」と声が聞こえてきそうな大きな動きでブレーキもかけずにベビーカーを突き放してから入店する謎の行動を取った。

カラカラと無人のベビーカーが1mほど進む。

その行動から察するに、どうも男はベビーカーがどうでもいいように思えてなら無い。
物はボロボロだし、もしや飲食店で食事をした後にこの場に捨てて去るつもりなのだろうか?

気になった私は、外食なんぞ嫌いな癖に男を追って入店しようかと思い、店前へと素早く移動したが、男は入ってすぐの場所で店員に話しかけられて足を止めていた。

ガラス張りの自動ドアのセンサーが男に反応して開きっぱなしで、少し離れて様子を伺う私にも話がハッキリと聞こえてくる。

「お客様、無人のベビーカーを外に放置されますと危ないので中に入れて貰って構わないですよー?」

男は店員のその言葉に目を見開いた。口を半開きにして驚きを露にする。横顔でもわかりやすく予想外の事を言われたと言外に語っていた。
どうやら目敏い店員は、男の謎の動きを店内から見ており、不審な放置ベビーカーを持って入店することを促しているらしい。

店員にそう言われて固まる男を、携帯端末を弄るふりして観察していると、彼は動き出した。
一体どんな、その奇妙な行動に相応しい不気味な反応を期待して、固唾を飲んで見守っていると、肩透かしなことに男は無言で踵を返して店内から去り、無人のベビーカーを再び押して歩いて行ってしまう。

陽気な動きは鳴りを潜め、最初に見たときよりも歩みは速かった。

このまま追うか少し迷ったが、店員が閉まっていくガラス張りの自動ドアの向こうからコチラを見ていた。
視線はすぐに逸らされて、その店員は仕事に戻ったが、奇妙で不気味な男を追って観察していた私もまた奇妙で不気味な人に見えたのかもしれない。

気まずくなった私は、男とは反対方向へと足を向けて、予定通りに帰宅する事にした。

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