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『水が溢れる、首縊の谷』

今日も河川敷に死体が打ち寄せられた。この街で死体は珍しいものではないが、その死骸は頭部に強い衝撃を受け即死したようだった。検視する俺を無視して死体を運び去ろうとする小男を殴りつける。「あっちのやつ持ってけ!」少し先に転がる事件性の薄い死体を指さすと小男はヘコヘコしながらそっちに駆けていった。この街に火葬場は存在しない。全て銭湯の燃料として焼き尽くしてしまうからだ。

改めて死体を見る。男性30代、血の付いたグレーのスウェット姿でソックスのみ。スニーカーは住民に持ち去られたのだろう。拳にタコ、耳は餃子、格闘技を相当にやったらしく筋肉質な体つきをしている。身長180cm体重100kg超、重量級といったところか。

爪を見る。容疑者の皮膚は付着していない。つまり、組み合いになるまでもなく「一撃」でやられたということだろう。頭部には骨折は見られない、おそらく掌底による打撃……「厄介だな」容疑者を想定して頭を抱える。

180cmの大男を一撃で仕留める打撃の使い手といえば《中華飯店》だろう。商店街で愛されて三十年。成龍軒の店主のにこやかな笑顔が目に浮かぶ。《医者》はどうだ? 成龍軒の隣で愛されて五十年。針金よりも細く長い老医者の姿を思い起こす。彼の鍼であれば外傷を残さず脳髄をかき回すことくらいは余裕でやってのける。《カフェ》はどうか。あのうらなりの二代目は大学を出ているので頭が良い。コーヒーにタバコの毒を混ぜ込むくらいのことは平気で実行するだろう。だが、打撃で仕留めるには力不足か。

「容疑者が多すぎる」さらなる思索を重ねようしたがサイレンが遮った。『警報!警報!鉄砲水が発生しました!河川敷の方は至急あきらめてください』相変わらずのふざけた警報だ。俺はトレンチコートを翻して緊急退避したが死体は流されてしまった。

鉄砲水が過ぎ去るとすっかり河川敷は掃除されてしまっていた。水溢川の川面は何事もなかったかのようにキラキラと輝いている。小男は無事だろうか。あたりに姿は見えないが健康ランドから黒煙が上がっているので燃料の持ち込みに成功したのだろう。

この街では鉄砲水のたびにすべてが失われてしまう。産廃、死体、しがらみ、人情、ありとあらゆる廃棄物がこの街へ集まり、流されていく。事件は今日も起らなかった。「刑事泣かせだぜ、この街は」川向うで火を噴く原子力発電所の煙を眺めながら俺はタバコに火をつけた。

#ドブヶ丘 #小説 #1000文字 #ハードボイルド #ニュータウン

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