「どこにもない夏を探している」感想
綿津見(@unclear_09)さんの歌集の感想です。
まず、タイトルがいい。すごく。
人は知らないはずの景色を懐かしく感じたり、ありもしない風景を追い求めたりする。とりわけ夏という季節は、そういった存在しないノスタルジーとセットで語られることが多い印象がある。
だから、「どこにもない夏を探している」というタイトルは「まさに」という感じのタイトルだと思う。
ただし、上でノスタルジーという言葉を使ったが、この歌集はそういう湿っぽい雰囲気ではない。もっと透明な感じ。夏の幻想、という言葉もやや重い。夏について、生き物より無機物を通じて見出している印象。でも、魚とかはいる。ただ、私の中では水族館も無機物の側に属しているので、一貫している。宇宙も海みたいなところがあるし。
水族館のような歌集、現時点ではこれがしっくりくる。
五首ばかり気に入った歌を抜き出してみる。
非遮光カーテンに透く日光が濾過した熱を届けてくれる
非遮光は「非・遮光」のように発音すると思っているが、「・」を含めて五拍になっているところが面白い。「濾過した熱」、実際には涼しい訳ではないのかもしれないが、涼しげで良い。夏が暑いからこそ涼しさを求めるのだが、空想上で夏を再構成するとき、「夏が暑いからこそ」が捨象され、涼しさだけがイメージとして残ることがある気がする。
タイムラプスの合間合間に息を継ぐ空の青さに気づけるように
息継ぎが持つイメージが好き。あるいは潜るというイメージが好きなのだろうか。タイムラプスは長い時間の映像を短く圧縮したものというイメージがある。そうした、加速する時間ではあんまりちゃんと息ができなさそうで、潜るというイメージが適切なように感じる。だから、その空隙で息継ぎをする必要がある。あと、合間合間。タイムラプスは確かコマ送りなので、コマとコマの間に合間を見出すことは自然で、そこも整合しているのが面白い。
また、ひかる。何光年も先のその呼吸みたいに静かに、あ、また。
星の瞬きを心臓の鼓動のように見立てる気持ちというか、宇宙を生命のように見立てる気持ちが私の中にはある。「あ、また。」お腹の中にいる子供が蹴ったときとかに、言いそうな言葉だと思う。生命の鼓動。そういう見立てが、理路整然と説明されるのではなく、直線的な時間に沿って提出されているところが好き。「また、ひかる。」「あ、また。」
恋心みたいと思う 足元で白く弾ける昼間の花火
恥ずかしながら「足元で白く弾ける昼間の花火」が具体的なものをたとえているのか、抽象的な何かの表現なのか、あんまりわかっていない。なら取り上げなければいいのだけど、それでも好き。足元ということは、規模がおそらく小さい。それについて「花火」という大きいものを当ててしまう。恋心はまさしくそういうものだろう。恋心は、傍目から見れば小規模なものだが、本人にとっては花火のようなものだ。
夏が去る/エンドロールの後にまだ何かある気がして動けない
「どこにもない夏」は直接観察することはできない。直接に観察できるのなら、それは「どこにもない夏」ではなくなってしまう。「どこにもない夏」は間接的に触れたり、見出すことしかできない。しかしながら、「夏の終わり」は境界こそ不明瞭ではあるが、実際に存在するもので、観察できる。そして、「夏の終わり」は「どこにもない夏」の終わりも含意している。だから、私たちは「夏の終わり」を通じて、触れることができないはずの「どこにもない夏」の一端に触れることができる。夏が終わるそのとき、どこにもない夏に私たちは触れる。だからこそ、その先に何かを期待してしまう。
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