「完璧に見える」というあまりにも分厚いフィルター
憶測が飛び交う状況に頭痛がし、遮断した。このようなことは、話題に乗って書くようであまり好きでない。どう書いても、綺麗事になりそうで情けない。それでもあのニュースの日から、何かにしっかりと絶望している。
一体何に?
自分を保つために、どこかに吐かなければと思った。いずれ消すかもしれない。
◇
スクリーンの中でしか観たことのない人。
共通点といえば、同世代であることのみ。「ファンです」と公言するほど、一生懸命になにかをチェックしていたわけではなかった。ただ、彼の名前と「死」の文字の羅列が目に入るたび、胸の奥の奥が鈍く痛んで、片時も忘れられない。
彼の体に実際に寄り添って支えられる幸運な切符を持っている人は、当然ながらほとんどいない。その代わり「作品を見る」という形でたくさんの人が彼の手を握り、背中を支え、足を動かす力となっていたはずだ。思えば、私もその「たくさんの人」のうちのひとりだった。
彼のさまざまな姿や作品を通じて、たくさんの人が励まされてきたその裏で、彼自身は日々苦しんでいたんだろうか。
自分の代わりがいないことに自覚と誇りを持つ一方で、黒く埋まっていくスケジュール帳を見るたびに”消えてしまいたい”と思っていたんだろうか。
何にもがき苦しんでいて、どんなことを求めていたのか。もっと別の、好きなことがしたかったのか。ただただ休みたかったのか。
それとも、休みたいと思う自分が許せなかったのか。あるいは、まったくもって見当違いの理由か。答えを知れるわけもない問いが、浮かんでは消える。
それでも「なぜこんなことを」と結末を責める権利は当然ないうえに「命って大切なのです」と声高々に説く気にも「悲しいね」とだれかと共感する気にも、情報を追って詮索する気にもならないのは、理解しているふりをしたいからでも彼の行動のすべてを肯定したいからでもなく、彼が決意した気持ちの境界線にいく可能性が、どの拍子で訪れるかわからないと思うからだ。
どんなに健康な人でも、順風満帆な人でも、誰だって、自分だってきっと。
彼のことは今後しばらく大々的に取り上げられ、そのたびに悲しみに明け暮れる人がいたり、理由を断定したくなる人がいたり、お金儲けに走る人がいたりするのだと思う。
けれど彼が自分に下した決断は、今日、いまこの瞬間も、どこかでだれかの身に起きている出来事で。
ここだ。私が絶望していたのは、ここだった。
「順調そう」に見える人が、人知れず自分で命を絶っていくこと。「順調そうじゃない」と分かる人を救えないかもしれないこと。他人事ではないかもしれないこと。
「あたたかく柔らかな光のなかで生きている人」という一つひとつの私の勘違いが、その人を深くつめたい闇に追いこんでしまうかもしれないこと。残された人間が憶測でものを言い、いずれ何事もなかったように日常に戻っていくこと。
私も含めて、そうなのだ。生きていくために、きっと無意識にそうしてしまう。記憶が薄れてしまう。
そのどうしようもない事実に、しっかりと冷静に絶望していて、どんなふうに気持ちを持っていけばよいか分からない。ひとりきりの暮らしではないのでそれなりにしゃんと過ごそうとしているけれど、残酷なくらいさらさらと流れる日常に、元の気持ちのまま身を置けるようにはまだならない。
自ら命を絶ったのは、私が会ったことも、触れたこともないひとりの人だ。それなのに、それでも、本当にいたたまれない。
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