発達障害で学んだこと

発達障害者として生きてきて、大半は生きづらいことや対処できない辛いことだった。ただ、その中でも全部が全部他の人に比べて劣っているかというと、そういうわけでもないと思う。

自分自身が発達障害として生きてきて感じたことを書いていこうと思う。

人に優しくできる

人の失敗や容量の悪い人、能力面において大半の人を許容できる。

なぜなら自分ができないから。

どう頑張ってもできないことがあると身をもって知っているし、人に説明しようもないことが起きることもわかる。

そういう人を見たときに、(あまり比べるものではないかもしれないけど)定型発達の人は、理解できなさそうにする。出来ない人にあたりが強い人や理解のない人は割といる。そういった人に対して不快に思わない。(もちろん出来ないと責任面で問題があることは知っている)

今までなんとも思ったことはなかったけど、人が人を責めたりとか理解不能な人にイライラしている場面を見ると、意外とこれは才能かもしれないと思う。

普通の人の理解が及ばない範囲の人が存在することを不思議に思わない。(周りから見た自分がそうだったから。)人に対する無理解って抱える側も割とストレスだろうからこれは結構役に立っている。

色んな人に優しく出来る。そしてそのおかけで救われてる人も実際いるみたいだから悪くもないかも。

不安はあっても不満はない

なぜなら自分が器用に生きられないから。

人に対する不満はあまりない。だって自分のほうが圧倒的に誰よりも出来ないから。生きる力を比べたらみんなが自分より上だから。 

これが身についているからか謙虚でいられる。

自分が発達障害であることが何よりも辛いから、基本的に外に対する不満や否定があまりない。

当たり前がとても幸せ

大前提として、当たり前のことが当たり前にできないので、他の人が得られる当たり前は得られていない。

例えば私は元場面緘黙症で、友達が一人もいないときもあった。また、どう振る舞っていいのかわからずミスを連発したり人間関係でも不可解なことをしていて、発達障害のせいで自分自身の立ち位置を脅かされたことはかなりある。

けれど、そのせいか緘黙症を脱して友達と会話できたとき、とてつもなく幸せだと思った。

緘黙症の時は、先生にトイレに行きたいと言えなかったけど、高校生・大学生になって自由にトイレに行けたこと。

中学生の時に自分の正体がわからなくて家でも学校でも自分でいられなかったし、家族に自分のことを一切話したくなかった。でも今は家族と普通に話せていて、かなり数少ないが友達もいる。それが以前の私では考えられないほど幸せなことだ。

ほかにも、人からしたら本当に大したことじゃないけど、落ちたぶん気づくことが多い。そして周りを見ていると、自分が見てる視点って意外と周りの人には無いものだと気付くことが多々ある。

これは割と幸せだと思う。

嫌なことも耳に入らない

私は基本的に、周りの人が普段思ってる事とか周りの人間関係とかに疎くて、身の回りで何が起こっているのかわからない。 

ささいなコミュニケーションを取らないから人の情報は入ってこないけど、悪口や愚痴を聞く機会もない。

人間関係のいざこざに巻き込まれることが他の人より圧倒的に少ないと思う。

もちろん孤独だけど、そこは結構良かったと思う。

傍から見たら全く羨ましく見えないかもしれないけど、私は私で満足している部分はある。

生きているだけで本当に偉い

これを地でいってるところ。

他の人じゃ考えられない失敗や劣等感や居心地の悪さを経験してきて、当たり前のことは当たり前じゃないと知っている。

正直他の人が苦痛に思わないようなことが苦痛だし、生きていて苦痛の連続。

大人になったらすごいわかる。

何回も何回もミスをして辛い思いもして、勝手に涙が出てくる日もあって身の回りのことがとにかくできなくて、自己管理能力はかなりない。

人がこなせることをこなせない悲しさ。

いろんな苦労を持っている人がいるけど、おそらく私は自分の身の回りの人の倍は辛いと思う。だって形にすらならないから。

生きるにあたってとにかく余裕がない。

普通に生活している大人全員が凄く見える。

というか生きているだけで、死なないだけでもとてもすごいと思う。だから本当はそれ以上のことは望まなくてもいい。

とにかく誰に対しても、自分に対しても生きているだけでもかなり偉いと思っている。

鬱も患っているから尚更そう思う。

他にもいくつかあると思うけど今思いつくのはこのくらいかな。

足りないものだらけだったので、足るを知ることが幸せの最短の道だということもなんとなく感じている。

その方法がわかるだけでも結構幸せだと思ってる。




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