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アニメみたいなシナリオデビュー

大学3年になりって、私は六本木へと通い始めた。
当時の六本木は、今より大人でDeepな雰囲気が漂っていた。
私の行先は、当時六本木のシンボルだったアマンド・・・を通り過ぎた裏道にあった。そこに見えてくる武骨な警察署を通り過ぎると、古い灰色の雑居ビルがあり、そこが私の目的地だった。
そこにあったのは放送作家協会。そして私の目的は、その放送作家協会が運営していた放送作家教室だった。
そう、私はとうとうアルバイトで貯めたお金で、その講座へと通い始めたのだった。

当時、大学とか以外でシナリオの勉強を目指す人の多くは、この放送作家協会かシナリオ作家協会が運営している教室へ通っていたように思う。
どちらも有名シナリオライターが所属する協会の直営だった。
私が放作協を選んだ一番の理由は、受講費がこちらの方が安かったからだ。
当時、アニメライターの代名詞のような存在だった辻真先先生が所属していたというのものも、もう一つの理由だった。
私はオタ活の合間にオタなバイトをして貯めたお金を使い、この教室へ通いはじめたのだった。

大学へ行きながらだったので、講座は夜間部を選んだ。
昔の事で記憶があいまいだけれど、授業は週イチだったような気がする。
バブルがはじけはじめていた六本木だったけれど、私は大学が終わると渋谷からバスで六本木に向かい、帰りは電車賃と時間の節約で、六本木の薄暗い防衛庁の自衛隊員が守る鉄のフェンス前をテクテク歩き、乃木坂の駅から家に帰った。再開発される前の六本木は日比谷線しか地下鉄が通っておらず不便だったのだ。

講座は2時間程度で、TV構成もドラマや映画の脚本家の区分けもなかったように思う。
まずは概論的なシナリオの構成や書き方を学び、たまに協会に所属する現役バリバリ人気脚本家の先生らの特別授業もあった。
ラジオの構成作家さんの他、映画を手掛けた巨匠、人気テレビドラマ作家さん、もちろん前述の辻真先先生の授業もあり、アニメのシナリオについて教えていただいた。
もちろん実践授業もあり、グループでだが、直接、脚本家の先生に教わる事もあった。ただ半年足らずではさすがに作品を仕上げるまでには至らず、シノプシス(あらすじ)程度までで終わったような気がする。
私は恐れ多くもあの石原裕次郎主演の映画「陽の当たる坂道」のシナリオも手がけた池田一朗先生に見ていたくことが出来た。
偉ぶることもなく、私のいたらない話もちゃんと見て下さった。私が選んだ物語の土地を「なぜそこにしたのか?」と問われた。当時は『絵になるから舞台はどこでもいいのでは』と指摘にピンとこなかったけれど、後にはなんとなく理解出来た。
そして構成までで終わった授業の最後に「ちゃんとこの話を最後まで書くんだよ」と言って下さったのに、その約束は果たしていない・・・本当に申し訳ない。

アニメライターを目指す人はあまりいなかったけれど、よく話す仲間も出来た。一人は私と同じ女子大生でもう一人はOL。授業前と帰り道でおしゃべりをして別れるだけの関係だったけれど。
夜間部はそんな年齢も性別もバラバラな生徒が教室を満たしていた。
皆それぞれ映画が好きだったり、脚本家に憧れこの講座に通ってきていたわけだけれど、昼間部も含めると1期で50人以上の生徒がいたわけで・・・。
そんな中からプロになれるのはほんの一握りだな、と私も授業を受けながらぼんやりと感じはじめていた。
そうして半年ほどのシナリオ講座は1本のシナリオも仕上げる事なく終わっり、地味すぎる六本木通いは、私の青春の一ページとなった。

・・・って、これだと私のシナリオライターへの道はThe Endだ。
だけどここで終わらない。
物語の基本は「起承転結」。六本木編は「起」「承」にしかすぎなかった。

実は放送作家教室に通おうと考えていた頃、辻真先先生から"今度横浜でアニメ講座が始まりますよ"というお知らせを頂いたのだ。
実は申し訳ないことに、どういう経緯か覚えてないのだけれど、アニメージュのコラムで私のミニシナリオを採用していただいた後、脚本家になりたいと手紙等で私は訴えていた・・・のだと思う。
それで辻先生は、私が住む横浜で、今度ご自分が教える予定のアニメ講座が始まる事を教えていただいた・・・のだと思う。

さて、そのアニメ講座を開こうとしていたのは当時、横浜アカデミーという予備校やカルチャー講座を開いていた所だった。
そちらも週一回、たしか土曜日の午後だった。
ただしシナリオだけではなくアニメ全般。
講師は辻真先先生と、やはり当時売れっ子脚本家だった山本優先生のお2人。あとアニメ制作のプロデューサーが1名、アニメーター1名の計4名で、順繰りに教えて下さる、という事だった。
放送作家教室に行くと決めていただけに、同時期に始まるという事で一瞬悩んだ・・・けれど、こちらもかなりお安い受講料で、さらにはアニメーターの先生が、当時大人気だった影山楙倫先生!と聞いては、これは無理しても行かねばならぬ、と。しかもやはり影山氏のファンだったSF研の同級生・親友のA美も誘い込んだ。
かくして私は大学の他、ダブルスクールならぬトリプルスクールをこなす事とあいなった。

放送作家教室もかなりバラエティに富んだ受講生だったが、この横浜のアニメ講座はもっとすごかった。
私とA美は大学生。この教室の唯一の男子は、この予備校に通学中の浪人生。あとはOLのお姉さま1名と女子高生が2名。さらにマンガ好きな男子小学生1名。
バラバラな7名だったが、アニメや漫画が好きという共通項があったお蔭で意気投合するのは早かった。

でも逆に、先生側は大変だったと思う。
しかも一人週イチ、3時間程度での授業では教えられる事も限られる。
そこで同じアニメプロダクション所属のプロデューサー氏とアニメーターの影山先生は一緒に授業をし、月2コマでオリジナルアニメのストーリーからシナリオ、絵コンテ、レイアウト、動画までを作ろう、という事になった。
かくして脚本家志望で絵のかけない私まで、絵を描かねばならなくなった。
その為に購入したアニメ用の道具(透視台とタップ)等も購入(先生らが現場価格で安く調達してくれたった)は、今も大切にしている。
このアニメ作りについては、語ると長くなりそうなので割愛するけれど、結局1年の講座内では終わらず、作品は動画途中までで終わってしまった。

さて、私にとってメインであるシナリオの授業。
これまであちこちで講義もこなしてきた辻真先先生は、その学校の先生か教授のような風貌通りに、わかりやすく丁寧にアニメシナリオのノウハウ等を教えて下さった。
今も忘れないのは、私の提出原稿に消しゴムカスが残っていて「こういう消しカスもきれいにして提出して下さいね」と優しく指摘された事だ。本当に基本的な事なのだけれど、それすらわかっていなかった自分が本当に情けなく恥ずかしい。きっと当時の自分は他にも至らない点がたくさんあったろうけれど、優しく丁寧に接して下さり、ひたすら感謝しかない。

さてもう一人の山本優先生は、辻先生とはまったく異なるタイプ、見るからにギョーカイジンという感じ?
ロボット物からヤッターマンシリーズ等のギャグ系の作品も多く手掛けていらして、とにかくエネルギッシュ。
授業も理論より実践派で、このアニメのプロット(あらすじ)をオリジナルで作ってみなさいと、いきなり放映中のアニメの設定資料を渡されたのだ。
その作品は、当時山本先生がシリーズ構成を担当していた国際映画社の「おちゃ女神コロコロポロン」という低年齢層向けのギャグアニメ。そして原作はあの吾妻ひでお氏!
なにをかくそう吾妻ひでおファンだった私は、この"美味しい話"に食いついた。ない頭をしぼってプロットを考え提出したら、あちこち手直しは受けたものの、なんとこのままシナリオ書きなさいという流れに!
私だけでなく、やはり映像関係の大学を目指していた浪人君のプロットも採用。
一応、六本木で勉強もしていたし、さらに先生の指導もあって、どうにかシナリオの形になった私と彼の作品は、なんとあれよあれよという間にアニメとなり、放映される運びとなったのだった。
まさに起承転結の「転」な展開!

この作品では1本だけだったけれど、引き続き山本先生がシリーズ構成をする事になった新作「ななこSOS」(これまた吾妻ひでお作品)でも、私を含めた教室のほとんどの生徒が、この作品のシナリオを書く事になったのだった。
実力というより、当時はアニメ乱作状態でシナリオの書き手が足りなかったお蔭だとは思うのだけれど。
それでも普通のシナリオ講座に通っていただけでは、絶対にこんなチャンスは得られなかったはずだ。
学生のバイト代でも払える音楽教室なみの月謝で、色々教えてもらったあげく、シナリオライターデビューまでさせてもらえた。
ちなみにシナリオ料もいただき、さらに著作権登録してる自分には、わずかなららいまだ印税も入ってきている・・・。
書かせて下さった山本先生はもちろん、この講座の存在を教えていただ辻先生にも足を向けては寝られない。
残念な事に、このアンピリーバブルなアニメ講座は1年で終了した。
講師の先生らが多忙な上、生徒数も少なかったから仕方ないけれど。

でも・・・自分のミラクルはこれでは終わらなかった。
仕事に関しては、本当にラッキーな星の元に生まれたらしい?この”自分語り”は、まだ続きます・・・

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これまで書いたnotoの紹介はこちら
→ インデックス https://note.com/u_ni/n/ncaae14bb6206/edit

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