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ノートへ書き連ねた今年の振り返りを、そのまま

仕事を辞めて、8月から無職。
でも、11月にバイトが決まった。
もう何もしたくない、したいこともない、でもそんなわけにいかないし。
Adoのライブに行って、少し変わった。
開放的に歌う姿、歌声がかっこ良くて。
沢山の人の協力の上で何かが作られ、成り立つ営みはやっぱり素晴らしくて。
(それは葬式にも通じるけど)
自分は何をしてる時が、一番解放できるんだろう。
それをスタートに考えだした。
思い至ったのが、文章だった。
誰かに手紙を書いてる時、溢れているし、整理されている。
どこにどう、感謝しているのか。自分の言葉を伝えて
どう楽になってほしいのか、そのためにどんな言葉がいいと思うのか。
自分の気持ちは、どう言えば分かるのか。
ありきたりはいやだ。オリジナルも欲しい。
そうして、書き始めた。
去年9月に死んだ友達の、お母様。東京に異動が決まった元上司。大事な後輩。
note。100日も書いたし。
コーヒーもたくさん飲んだ。どう美味しいのか、此処のどこが好きなのか。
何で何回も行きたくなっちゃうのか。
それが知りたくて、言葉や文にできるようにしたくて。
そうしたら、言葉の捉え方、読み方、
世界の捉え方、心の在り方が良くなるのではないか。
雑誌の文が書けてライター仕事に繋がるんじゃないか。
私のスタート地点は、何事も「みっともない」だ。
みっともない。情けない。恥ずかしい。
自分の気持ちが伝えられなくて恥ずかしい。
やりたいことがなくて恥ずかしい。どう感動して何に泣いて、
どう美味しくて、どう思ってるのか、示せないのが恥ずかしい。
みっともない。申し訳ない。居心地が悪い。
そう思うと、伝えられる文を書きたくなった。
言葉を自在に出せるようになりたくなった。
本を読みたくなったし、出会う文への目線が変わった。
喫茶のメニュー、大学案内、文庫のあらすじ、弔辞文、
作者のあとがき、広告のキャプション、芸能人のコメント。
インスタグラムに吐露された、マスターの思い。
美文悪文の区別が分かるようになったのではない。
文を読むことへの意識が変わった。
そうなってくるうち、気持ちが安定するようになった。
吐き出し方が一つ、身についてくれた。
私はこの人の性格、台詞、考え方に傷ついているのではない。
この人の表現、語、文章に触れて、それを解釈して
勝手に傷ついているだけなんだ。
言葉や文はただただ無機。その人が自分を伝えるために
ノミネートされたのが、その言葉であるだけにすぎない。
それを解釈することで自分の心に生まれた何かに、
傷ついているだけだ。私は自分の曲解に傷ついている。
傷つきもするし、救われたり泣いたりもする。
それはただの文章。…と思うと、すごく楽になった。
重い衣が脱げた。
書けるようになったら、もっと楽になるかもしれない。
文章書くのは遅いし、上手くもないだろうけど、
手紙が下手だとは思わない。自分の文を読むのは嫌いではない。
もう、正社員とか資格とか、手に職とかどうでもいい。
何ならさっさと死んで、去年亡くなったあの子と再会したい。
でも仕方ないから、いっそもう文章書く方向でいこうか。
そしたら、フリーでやるとしたら、そういうところで働く経験とか
そういうスクール的なところで学んだ方がいい、らしい。
じゃあ、バイトやろうか。無職より体裁は保てるし、
年金分ぐらいのプラマイはゼロにしたい。
そうして、始めた。結果今、とても楽しい。
この「とても」というのは、毎日がルンルンとか、夢に向かってだとか
熱中しすぎて日々アドレナリンドバドバとか、そんなんでは決してない。
不安もある。自信は「ない」寄りの、「ないこともない」。
親が死んだらとか、いつまでこのままいれるかとか、
年金や税を考えると死にたくなるのも変わらない。
でも、それに固く目を瞑りながら、震える声で言ってもいいのであれば、
楽しい。
今月頭、コロナにかかった時はまたクビになると思ったが、
ありがたいことにさせてもらっている。人にも恵まれた。
今年最後に、幸運を感じられた。ああ、良かった。

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