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私にとっての歌うということ

ずっと音楽をやっていたかった

私は音楽が好きだ。聴くことはもちろん、楽器を演奏することも、歌うことも。いつからかはわからない。ただ、気づいたら好きで、音楽をやらないという選択肢は私の中になかった。

幼少期からあらゆる楽器に触れてきて、鍵盤、管楽器、打楽器、弦楽器…幅広く一通り人並み以上に楽器を演奏した経験がある、と自負している。

エレクトーンのグループ演奏・ソロ演奏も、ユーフォニアムでの金管バンドも、アコギでの弾き語りも、エレキやキーボードでのバンド演奏も、どれも楽しくてかけがえないものだったけれど、結局「私よりうまい人はいくらでもいて、私にしか出せない音はない…」と今ではやめてしまった。

学生の間、なにか“音楽をやる”となると楽器を演奏することが主だったけれど、社会人になって、いわゆる「歌い手」という活動をはじめてみて、今私のできる“音楽をやる”は「歌うこと」(たまに弾き語り)になった。

思えば、いろんな楽器をしていた間も歌うことは特別好きだった。

中高の合唱コンクールでは気合を入れすぎるあまり、クラスの一部に疎ましがられることも多かったけれど、所属したクラスが表彰圏外だったことはなかった。始業式や終業式で歌う校歌も、周りの目を気にして控えめだったものの大きかった(らしい)。

私にとって音楽は、歌は、幼少期から好きなことだったから、「なぜ好きか」と深く考えたことがあまりなかったように思う。でも歌い手としての活動をはじめてから早くももうすぐ2年経とうとしている中、この活動をしている意味は果たしてあるのだろうかと考えることも増えた。

「歌い手」をやる意味

そもそも「私の歌声をもっとたくさんの人に聴かせてやりたい」という願望ははじめからあったものの、「有名になりたい」とか「ちやほやされたい」とかいう気持ちはなかったはずだった。(思えば「たくさん聴いてほしい=再生数を伸ばしたい、有名になりたい」と受け取れなくもないが、違うんだ…ニュアンスを受け取ってほしい)

なのにいつの間にか、「再生数が伸びない」「コメントがなかなかつかない」「RTもいいねも伸びない」「投稿しても反応があんまりない」等々いろいろな不満が湧き出てきて、モチベーションがうまく保てなくなった。そして「歌い手を続ける意味は果たしてあるのか」と考えるようになった。

たぶん、結論から言えば「意味はない」のだと思う。それはきっと「生きる意味」を探すのと似ている。生まれた意味や生きる意味の答えがなかなか見つからないのと似ている、気がする。

「意味はないけど、何かの可能性がある気がするから、あるはずだから、やってたい。」というのが、今の私の本音かもしれない。

私が大好きなアイドルの楽曲を歌って投稿していたら、その子が「聴いたよ!」と言ってくれた。いつか同じステージに立って歌うのが夢だと伝えていたアーティストが、「歌聴いたよ、いつか同じステージで歌おう、それまで私も頑張るから!」と言ってくれた。歌い手の活動をしていなければおそらく出会うこともなかった人たちが、私の歌を通して“私”を見つけ出してくれた。

歌手になれるかも!とかそういう大きな可能性じゃなくて、ただ、私が人生を楽しくするための可能性があるはずだから、だからまだ、歌い手をやっていたい。

なぜ歌うことが好きなのか

いつか歌い手をやめるときが来たとしても、私が歌うことを嫌いになる日は来ないと思う。なぜなら私は歌うことが大好きだから。

歌い手をやる意味を考えると同時に、「歌うことが好きな理由」も深く考えた。

結論、「感情をうまく吐き出す唯一の術だから」だと思った。

感情を吐き出す術

私は感情を吐き出すことが苦手だ。今でも人目を気にしてしまうし、基本的に「自分が我慢すれば事はうまく進んでいく」という考えだからだ。数年前に比べればはるかに感情を表に出せるようになったとはいえ、気づかないうちに、吐き出せなかったあらゆる感情に押しつぶされて瀕死状態になってしまう。

これまでこれを解消するために、色々な術を身に着けようとしてきた。いわゆる認知行動療法、ノートに書き殴る、誰も見れないSNS等に吐き出し続ける、ストレス解消のための運動、甘いものを食べる、服を買う、等々…。そのどれもが長く続かなかったり、デメリットが大きすぎたりしてうまくいかなかった。

そしてある日突然に気が付いた。「思いっきり歌うことが一番すっきりする!」と。

これまであまりに意識しなさ過ぎただけで、私にとって一番のストレス発散は「思いっきり歌うこと」だった。そして私にとっての「思いっきり」とは、「これでもかと言うほど感情を込めること」だ。

私は歌う時、曲調やメロディからなんとなく、そして歌詞からより具体的に、「曲の中の物語」を強く意識している。

一つの物語がありました。その物語には登場人物が何人いて、ある人物の視点で物語が語られていて、ある出来事があった。その時その人物はこういう気持ちを抱いていて、物語はおそらくこういう風に続くだろう…。

といった具合に。その物語の主人公に感情移入して、その人物になりきって歌う。そうすることで、吐き出すことができずに溜まってしまった感情たちを、その人物を演じる“私ではない私”が代わりに吐き出してくれる。

それは単純な「喜怒哀楽」だけでなく、うまく言葉にできない複雑な感情も、とてもじゃないけれど普通には表に出せない感情も、すべて吐き出してくれる。

私にとって、唯一我慢せずにできる感情を吐き出す術がこれだ。歌っているときの私は“私ではない”けれど、それは紛れもなく“私”なのだ。

私の歌声は絶対に私だけのものだから

楽器にだって感情を込めることができて、エレクトーンの演奏も、ユーフォニアムを吹くことも、感情を吐き出す術の一つであったと今振り返ればわかる。

でも当時はそれに気づいていなかったし、楽器は音に「個性」を出す前にまずなにより「技術」を身に着ける必要があって、私が自分自身に課す「技術」のハードルがものすごく高かった。今も高いままだし、おそらく当時よりもさらに高くなっている(当時よりも色んな人の演奏に触れる機会があったからそりゃそう)。そのハードルを越えられる気がしなくて、当時は「私が演奏する意味はない」と挫折してしまったし、今は挑戦する勇気すらない。

だけど歌なら。歌声なら。

私の歌声は他の誰にだって出せやしない。私の持つ声帯と全く同じ声帯を持つ人類は存在しないはずだし、私が歌に込める感情も、抑揚も、全部含めた歌い方をすべてそっくりそのまま複製することはできない。いくらボーカロイドやAIの技術が発達しているとて、私の、今この瞬間の歌声と全く同じものはどうやったって生みようがないのだ。

きっと「技術」という点で見れば私の歌はまだまだだと思う。プロにはもちろん到底及ばないし、腹式呼吸すらできているか怪しい。ボイトレの体験レッスンで言われたように「喉が異常に強い」が故にきっと喉で歌っているだろうし、音楽の知識だって全然ない。そんな「ちょっと人より歌がうまい程度で」と誰かに笑われるかもしれない。

それでも私は、ただ音楽が好きで、歌が好きで。感情を吐き出す術として、普通に生きていて感じることのない感情を体験する術として、誰かに想いを伝える術として、人生を楽しむ可能性を掴む術として、あらゆる術としてずっと歌っていたい。

歌うことが、私の人生を構築しているのだと思う。これからもずっと大事にしたい。

なんだか歌への壮大なプロポーズみたくなっちゃった。

この世に音楽があってよかったな。私を生かしてくれてありがとう、音楽よ。

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