『ゲームの王国』に住んでいる

歴史ものの面白さは、いつ何が起こるか分かるところだと思う。

有名な歴史人物は、物語の中でアトリビュートとして機能している。
たとえば、織田信長が登場した時点で本能寺が燃えるのは分かってるし、石田三成が出てきた時点で西軍が負けるのが分かってしまう。
どんなに順風満帆な描かれ方をしていても、彼らの名前に「滅び」を予感してしまう。

『ゲームの王国』も、一行目の人名を見ただけで悪い予感がする。
ご丁寧にも、登場人物紹介にサロト・サルが何者なのか書いてあるからだ。

物語は視点を変えながらじわじわと進み、どうやらムイタックかソリヤが主人公なのかなと思い始める。

でも、ムイタックが聡明であればあるほど、不穏さを感じずにはいられない。
あの時代のカンボジアで頭が良いことは罪だから。

つまり、私は歴史を(ぼんやりと)知っているせいで怖いのだ。
大学に通っていただけで、英語を知っているだけで、単に「目立った」というだけで殺される時代が来るのが分かっているから、ムイタックがずば抜けて賢いことが不吉に思える。

一方で、子どもが医者や軍人に任命されたという話も知っていたので、もしかしてムイタックもそっち側に行ってしまうのでは……ということも考えた。

しかし、物語はそういう不安要素をかすめながら、予想もしない方向に向かっていく。

やっぱり「狂気」といわれた時代がやって来て、人がいっぱい死ぬけれど、ロベーブレソンの村に漂う奇妙な明るさは何だろう

綱引き預言者「マットレス」、ソングマスター「鉄板」、超射精農民「泥」とか濃すぎるキャラクターがぞろぞろと出てきて、生きるか死ぬかの状況なのに笑えるのだ。

ただ、この笑いって茶化した笑いではなく、何か本能的なものだと思う。

たとえば私も、災害の時、口数が多くなっていらんことを言ったり、妙に元気になって寝なくても平気だった覚えがある。

そういう、ヤバいからこそ笑っちゃうという本能を、この濃すぎるキャラクターたちにくすぐられているような気がする。
どう考えても変な人々なんだけど、変にならざるを得なかった切なさというか、逆にたくましさも感じるというか……。

「泥」が無双するシーンで思ったけれど、グロとかエロとか滑稽さって、極限まで行くといっそ感動的に見えてくる。

逆に、泣ける感動ストーリーがあまりにもテンプレートすぎて滑稽に思えることもある。

低俗なものと神聖なものは対極じゃなくて、実はけっこう近い概念なのかもしれない。
というのはモロに網野善彦を読んだ影響です。

そもそもの「聖と俗」は転倒可能な概念じゃなかったみたいですが。


「輪ゴム」のクワンが糞問答に陥ったり、フオンが演説に失敗したり、智美が貧困問題の根本的な解決ができずに苛立ったりするのは、ソリヤの言葉に集約されているように思う。

「私たちは正しいことを正しくできません」

クズ男のベンが、自分の息子を値切られて百二十ドルで売った直後に

「そうかもしれないけど、その子は半分が俺でできているんだ……」

と泣くところとか、どうしようもなく尊く感じてしまう。
そんで、人買いの男に所持金全部を養育費として渡してしまう愚かさがまた、尊いんだよなあ……。

そんなに大事なら売るなよ、とか、自分で働いて何とかしろよ、とか正論をぶつけるのは簡単だけど、それじゃあ会話にならない。糞問答と同じだ。

「本当に困っている人ほど救えない」という、うすうす気づいていたけど言えずにいたことを、こうしてフィクションの形で見せつけられて、苦しいような救われたような気持ちだった。

そういえば、私たちだってゲームの王国に住んでるんだよなあ。

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