『これはペンです』の文体が脳にしみる
やべっ。
娯楽と興奮を期待して読むと拍子抜けするが、大学生協で売ってるテキストだと思って読むと面白い。
以前読んだ『屍者の帝国』では、説明過剰な文体がちょっと重たく感じたけれど、本書では思考が冴えすぎて空転しているありさまがよく伝わってくる。
円城塔の文章は、行間を読むのを許さないのだと思う。
たとえば修辞が少ない。
とくに「良い夜を持っている」には体言止めがほとんど無い。
たしか論文書くときって、体言止めしちゃいけないと習ったような気がする。
体言止めは曖昧な表現で、読む人に想像の余地を与えて、誤解を生んでしまうかもしれないから。
それから、本書の登場人物に名前は無く、叔父・姪、父・母、教授などの一般名詞で書かれている。
人は人名を見るとどうしても「意味」を感じ取ろうとしてしまうから、あえて名付けるのを避けたのかもしれない。
キャラクターに対する共感や感情移入は、この文章を読む場合にはノイズにしかならない。
円城塔の文章は、執拗に説明を説明し、ルビにルビを振る。
それなのに、どこまで追いかけても答えは出ない。
これってWikipediaのリンクで迷子になっていくときの徒労感みたいだと思っていたら、もっと的確で美しい表現をされている方がいた。
掴んでいたと思っていた意味が、魚のようにするりするりと手の中から逃げて、残っているのは水だけ。
それにしても、何だか異様な読書体験だった。
読んでいるうちに、だんだん「作中人物の思考」と「それを読んでいる自分の思考」がごっちゃになってくる。
話の中身は難しすぎて理解できないのに、なぜか思考だけがどんどん進んでいってしまう。ブレーキが利かないまま坂道を下りていくような感じ。
ついには、この文章に思考のハンドルを奪われて、操られているような気がして怖くなった。
そのちょっと不穏な感覚を要約してくれる感想が見つかったので、ほっとしている。
それは「文章というエンジンを使って読者の中に構造を作り出す」こと。
ああそうなんです。これ以上うまく言えない。
伊藤計劃が身体的痛みを伴う読書だとすれば、円城塔は頭痛を伴う読書だ。
身体を細切れにされるのは怖いしグロテスクだなと思うけれど、思考を切り刻むのもなかなか非道な行いだと思う。
身体を分子レベルまで分解すれば意味を失うように、思考も最小単位まで追い詰めれば意味を失い、自分固有のものではなくなる。
「誰が考えているか」なんてどうでもいいのかもしれない。
見た目がズルい
文庫版の表紙は可愛らしいし、タイトルが優しそうだし、薄いし、河出かハヤカワならまだしも新潮だし大丈夫そう、という油断を誘う見た目をしているところが本当にズルい。
騙されてよかった。