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すずめの戸締りに登場する"5つの要石"について【読解】

表題の通りです。まだ見ていない方はお控えください。

まず一つ目の要石はそのまま、ダイジンです。
日本の地震を、プレートの歪みから生まれる "ミミズ"を抑え込んでおり、彼がいなくなることでミミズは表出しました。


二つ目の要石は、すずめです。
すずめから「うちの子になる?」と言われたダイジン同様、
おばから「うちの子になる?」と言われたすずめは、おばにとっての要石でした。
彼女が家出をしたことは、おばの要石がなくなることと同義です。

だからおばは、要石であるすずめがいなくなると、十年間の育児の歪みから生まれた鬱憤を解放し、すずめに対して不満をぶつけました。

しかしすずめと共にバイクに乗り、すずめから抱きしめられる=要石が元に戻ると、再び擬似的な親子関係が修復したのです。

面白いのは、愚痴に対して「あれが全部ではないから」と言ったこと。
「あれは嘘だから」「あんなこと思っていないから」ではなく、あれが全てではない。
つまり、すずめの存在は確かに負担に感じることもあったけど、それ以上に幸せもあった。
大地の下にミミズはいるけれど、それ以上に日本は美しい。地震だけの国ではない。
戸締りの祝詞も自然への感謝を述べているようでしたし、これは自然を美しく描く新海誠の心意気かもしれませんね。


三つ目の要石は、おばです。
すずめの辛い記憶を封印し、心の扉を閉ざし、幸せな家庭を築いていたおばは、すずめにとっての要石です。
時にすずめにとって重く、負担に感じられていた描写は、すずめを封じ込める要石としての性質を描いたことでしょう。
彼女から離れたことは、すずめが幼い頃からの歪みと向き合うきっかけとなり、その結果すずめは、過去を精算、戸締りをすることができました。


四つ目の要石は、閉じ師です。
閉じ師はそうたにとって、「教師になる」という夢を封じる要石でした。
その家業のせいで教員試験を受けられなくなり、また自身が要石になることで、その夢は完全に絶たれる結果になりました。
しかし彼が要石ではなくなったことで、夢を封じる要因がなくなり、教師への想いが再び解放されることになります。
とはいえ、依然閉じ師と教師の両立の間には歪みがあるため、またどこかでそのストレスが表出することもあるかもしれません。

そんな時はすずめが要石になるのかもしれませんね。


そして最後に、五つ目の要石は、『すずめの戸締り』という映画そのものです。
東日本大震災から10年が経ち、震災の記憶も薄れかけている人がいるのではないでしょうか。
しかし首都直下型地震の危険性も報じられる通り、日々の対策を怠ってはいけません。

このタイミングで地震を主題に据えた映画を公開することは、視聴者にとって、震災に警鐘を鳴らす要石として機能します。

いつミミズが暴れるかわからないから、改めて対策をしよう。
少しでもそう思わせることができれば、この『すずめの戸締り』という映画は要石になることでしょう。


この解釈全体を通して言えるメッセージは、ミミズの存在と向き合い、うまく折り合いをつけること。
見て見ぬ振りをするのではなく、存在するのだと認めた上で、「それが全てじゃない」と折り合いをつける。
ぶつけるのか、心置きなく解放するのか、対策をするのか、その『衝動』の戸締りの仕方は様々ですが、放置して暴発しないように向き合うこと。
今回自分が「書きたい」という衝動を記事にしたのもその一環です。


さて、他にも作中を通した『ハウルの動く城』のオマージュだったり、頻繁に描かれる『人の助けを借りた移動(そうたの靴で走るなど)』の描写だったり、『なぜ椅子なのか』だったりと、読解できそうな要素はいくつかありましたが、パッと思ったことはこんな感じで。

もしここまで読んでくれた人がいたら感謝です。

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