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東京都復興記念館(その2・被服廠跡のこと)

東京都慰霊堂と東京都復興記念館がある横網町公園は陸軍被服廠の跡地に作られたものである。
被服廠というのは軍服などの製造・保管等を行う施設。
1919年に本所区から王子区に移転した。
移転した後の本所区の跡地は、公園等が整備される予定だったが、まだ整備がされないうちに1923年、関東大震災が起こり、この場所に大勢の人たちが避難してきた。

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ちょうど昼時であったことと、台風の余波で強風が吹いていたこともあり、各所で火災が発生しました。やがてこの被服廠跡にも強風にあおられた炎が四方から迫り、その火の粉が持ち込まれた家財道具などに燃え移りました。激しい炎は強大な炎の竜巻、火災旋風を巻き起こし、一気に人々を飲み込みました。この地だけで3万8千人もの尊い命が失われました。
(都立横網公園ホームページより)

大きな空き地があればそこに避難するのは当然のことで、現在でもそれだけ大きな空き地があれば避難場所に指定されるだろう。
これは運がなかったとしか言いようがない。

雑司ヶ谷あたりからこの情景を観ていた内田百閒はこう書いている。

午後3時を過ぎたころから、雲だか煙だかわからないその大きな塊の中から、どろどろと云う遠雷のような音が起こった。段々に大きくなって、音が一続きになり、唸る様な響きが轟轟と伝わって来だした。赤黒い色の中に、ぴかりぴかりと鋭く光る小さな物が飛び交った。何の物音とも解らずに、ただ独りでに頭の下がる様な恐ろしさであった。本所深川の一帯の火炎が大川縁に吹き付けて、縺れて捻じれあがってあるとは知らなかった。被服廠跡を包んだ焔の声であったかと後になって、その唸るような響きをもう一度耳の底に聞こうとした。
(内田百閒「入道雲」より)

内田百閒は、当時ドイツ語を教えていた長野初という女性をこの震災で亡くしている。
長野初については「長春香」という文章に記されている。

目白の日本女子大学校を出て、その当時帝大が初めて設けた女子聴講制度の、最初の聴講生の一人として帝大文化の社会学科に通っていた。
(内田百閒「長春香」より)

というのだからかなり優秀な人だったのだろう。
震災に遭った時には妊娠中だった。

後になって、長野は、まだ火に襲われる前、既に地震の為に重傷を負った母親を援けて、その血を身重の自分の背にしたたらしながら、一家揃って被服廠跡に這入ったところまでは知っていると云う人の話を又聞きした。日がたつに従い、哀惜の心を紛らす事が出来なかった。
(内田百閒「長春香」より)

竹久夢二は震災の翌日に被服廠跡を見に行っている。

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災害の翌日に見た被服廠は実に死体の海だった。戦争の為に戦場で死んだ人達は、おそらくこれ程悲惨ではあるまい。つひさっきまで生活してゐた者が、何の為でもなく、死ぬ謂れもなく死んでいくのだ。死にたくない、どうかして生きたいと、もがき苦しんだ形がそのままに、苦患(くげん)の波が、ひしめき重なってゐるのだ。
(東京災難画信/7.被服廠跡より)

田中貢太郎が被服廠跡に行ったのは9月6日のことだったが、震災の五日後でもこんな状況だったという。

私はビンの水を飲んだ後で、タバコを付けて喫みながら被服廠のことを聞いた。親方らしい男は其所からすぐですが、見ないが好いんですよと云った。
(中略)
黒焦げになった死体があっちこっちに散らかっていた。私はいよいよこれが被服廠跡だと思って広っ場の中の方へと眼をやった。そうして私は眼先がくらくらするように思った。広っ場の中は一めんの死体でちょうど沖から帰って来た漁師が思い思いに海岸へ魚の盛りをこしらえて、仲買人の来るのを待っている時のように、人の盛りをこしらえてあった。

(田中貢太郎「死体の匂い」より)

関東大震災の身元不明の遺骨のほとんどが、この東京都慰霊堂に納められている。

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