見出し画像

ポケットからきょむです!

ブランディングパートナー光君代表の西村優一です。

諸賢におかれましては、年末年始いかがお過ごしでしょうか。
毎年のことですがやはりこの時期というのは時間の流れや空間の雰囲気が異質で、どこかいつもと違う感覚であらゆることに触れられるある種のボーナスタイムのような風情があります。

そういう異空間で映画を観たり本を読んだりアニメを観たりブログを読んだりTikTokを観たりTwitterを読んだりすると、なんともいえない妙な感覚に襲われること、ありますよね。
私も例に漏れず絶賛襲われていて、一体何に襲われているのかと問われれば「物語に」と答えるしかありません。

物語に襲われています。
Netflixオリジナルドラマ『First Love 初恋』に、テレビドラマ『silent』に、小説『おいしいごはんが食べられますように』に、アニメ『チェンソーマン』に。

物語の物語性が物語ってきて物語しています。
物語が物語っtale。
と、こんなふざけた冗句をかましたくなるほどにやられております。

私たちには物語が必要です。

今回は、どうして物語が必要なのかという純然たる問いを自らに課して、物語について物語していきます。
大仰なものではなく、ぐるぐると回転する問いがそのまますこしだけでも宙に浮かんで低空飛行できれば御の字だな、くらいのものですが、ちょっぴり哲学者の偉業をお借りしつつ、読者諸賢とともに異空間に旅立ちたいなという願いを込めて。

言うまでもないことですが、物語には筋があります。
この、筋があるということがとても肝要な気がしていて、なぜというに、世界には本源的に筋がなく、だからこそ筋を求める情緒的な要請がおおいにあるのではないか、と。

いやいや、世界は筋だらけじゃないか。
神様が意図的に世界を構築したのだからその筋書き通りに進んでいるし、私だって親の生殖行為によって生まれているわけだから筋書き通りだし、今も自らの筋書きを意識しながら生きているよ、あらゆることは必然的で、控えめに言って運命最高だよ。
ほら、君の手だって筋ばっているし、大谷翔平は野球の筋がいいし、ジョジョの奇妙な冒険のスージーQはとても素敵な女性だ。

と、まくし立てる読者諸賢のつばきがこちらまで飛んできそうな気配があります。
いやはや、冗談っぽく書いてしまいましたが、現実には一神教はたくさんありますし運命論者もたくさんいるでしょう。
そうした思想を尊重しますし、筋を意識して生きれば人生は彩りに満ちますし、すばらしいことだと思います。

ただ、現代を生きる身としては、やはりフロイトやニーチェの影響から逃れることはできず、科学的な態度が根っから染み付いている私たちは、どちらかと言えばあらゆる偶然、どうしようもない孤独とともに生きようという諦観のようなものを愛好している向きがあります。
あくまでも現代的な傾向を思うに、神や運命を盲信して生きるよりも、世界や私たちの存在の偶然性を受け入れてそのなかでうまくやりくりして生きるほうが、マジョリティな気がします。

デリダやドゥルーズのポストモダンを代表する哲学者たちの仕事に見られるような、脱構築あるいはもっと単純に相対化の作業を介して、絶対的な存在や必然性の想定を覆すような、そうして混沌や差異を受け入れながら生きていくようなスタイルが、20世紀から現在に続くモダンスタンダードのように感じます。
ダイバーシティを声高に謳うのも、とても自然なことです。

決して哲学的な議論がしたいわけでなく、なんとなくムードとしてあるよね、という程度なのですが、しかしこのムードがなかなかどうしてあなどれない。

クリエイティブな案件でムードボードをこしらえることは多いですが、このムードボードは方向性を左右するとても大切なものですよね。
ムードボードがうまく機能していればその先の制作プロセスで大きな齟齬は生まれないはずです。

たかがムード、されどムード。

とまれかくまれ、偶然性のムードのなかでもがく私たちは、いわく言いがたい虚無の色彩を帯びがちです。
祈りを捧げる絶対的な存在もいなければ、自らの羅針盤となる必然的なルーツもありません。

ポケットからきょむです!

すみません、単にバズソングを真似したいのではなく、私たちは本当に、虚無と諦観をポケットにぎっしり詰め込んでビル風にあおられながらやたらと装飾的な街を歩いていると思うのです。

だからこそ、物語が必要なのです。
必然性を疑似体験できる筋が必要なのです。

ここ10年ほど、マーケティングにおけるストーリーテリングの重要性がさんざ言われていますが、市場にただようムードを読むことに長けたマーケターがやっているのだから、やはり物語は現代人の熱烈な動機になり得るのでしょう。

筋のない世界で生きるために、筋のある物語が欲しい。
これはまっとう至極な望みではないでしょうか。

秩序とは一般に、偶然性を馴致する、手懐けるものです。偶然を必然化する。「こうだったからこうだ」とわかるかたちにされているのが表の世界です。それに対して、わけもわからず要素がただ野放図に四方八方につながりうる世界が下に潜在している。

千葉雅也『現代思想入門』p. 128

時代の寵児、千葉雅也さんの言葉を引いてみました。

とにかくやたらめったらぐちゃぐちゃで収拾のつかないカオスの世界を、それが本来の姿であるからこそ、ある意味で同族嫌悪的に私たちは忌避してしまいがちです。
潜在する野放図な世界から距離を置きたいという現代的な欲求も、きっと物語が充足してあげているのでしょう。

上記の一節、“表の世界”を“ビジネスの世界”と換言してみるとおもしろいかもしれません。
ビジネスの世界にも、偶然性を手懐けるための物語が必要です。

偶然性が手に余るときはぜひブランディングパートナー光君にご相談を。

ここからは余談かもしれませんが、おなじみニーチェの“超人”や“力への意志”というコンセプトがヒントになるかもしれないと、ふと思ったので以下引用。

ツァラトゥストラが説こうとする「未来の人」「超人」とは、世界が「力への意志」によってできていることを知り、それが究極的には「一切の同じ事物の永遠の回帰」という本性をもつことをはっきりと洞察しつつ、「運命愛」という情念によって、なおもその世界の下での生を自己肯定する人のことである。世界はショーペンハウアーが説いたように、一切の事物が自らの生を維持し、子孫を残そうとするような働きからできているのではない。この考えでは、非生物的な世界の原理がまったく説明できないばかりでなく、反対に、機械論的なダーウィン的進化の論理を超える本当の意味での創造の芽も生まれる余地がない。意志はそもそも、何かを維持しようとするものではない。それは自らの維持という視点を忘却し、自らを危険にさらしてでも、「もっと多くのもの、もっと強い力」を求める純粋な衝動である。世界を根底から動かしている真の物自体は、世界の破滅をも積極的に肯定できるような、力への意志である。

伊藤邦武『物語 哲学の歴史』pp. 263-264

ニーチェはあまりにも人口に膾炙しているので詳しい説明は割愛しますが、私たちが物語を求めるのは、超人になれないから、つまり力への意志を受け入れることができないから、という見方もあるのではないでしょうか。

力への意志はなにも人間だけに働いている意志じゃなく、あらゆる事物に備わったもので、世界の破滅をも肯定するような衝動です。
神が死んだ世界を、なおも動かしている意志です。

“持続可能な社会”の実現が尊重されはじめている昨今のムードを考えてみてください。
まさに、この世界に蔓延するカオスでどうしようもない力への意志が怖いから、持続可能な社会という物語を作り出して安堵している構図が浮かび上がってきます。

超人となる強さを持たない私たちは、力への意志に翻弄され、恐れ、目を背けたいがあまりに、藁にもすがる思いで必然性を担保してくれる物語に頼っているのではないでしょうか。

閑話休題。

ちょっとネガティブな側面から物語讃歌を歌ってしまいました。
が、どのように世界を見るにしても、物語が要請されていることだけは言えると思います。

何の前置きもなしに突然、とてつもなく受動的にこの世界に放り込まれて、そうしてある日いきなり退場させられるのだから、そのほんのちょっとの間くらい物語にどっぷり浸っていてもいいでしょう。

きょむです!
(親指と人差し指をクロスさせて読者諸賢の眼前にかわいく突き出す)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?