言葉によるコミュニケーションの限界

<2006年04月24日の手記より>

私は、言葉を過信しすぎたようです。

知性と理性の産物である「言葉」は、全てを伝えうると。

そういう思い込みの下で、「言葉」を使用していれば、自らの意図が正確に伝わらないことに苛立ちや腹立たしさを覚えるのは至極当然で、伝わらない責任を受動者に押し付けるか、もしくは漠然と社会環境や今日の思想体系に押し付けていたかもしれません。時には自らの言語使用能力の低劣さにこそ、原因があるのだと考えもしました。それゆえ、言葉を使用する能力や環境次第によっては完璧な意思伝達媒体になりうるはずだという、なんら根拠のない、そして完全に主観的かつ盲目的な思い込みが発生し、言葉の使用を誘惑され続けてきた気がします。そして、当然それに付随して失望と後悔、もしくは虚しい自己満足から虚無感を味わい続けてきた気がします。

私が言葉の限界を述べる根拠は以下の通りです。

(1) 自己における一致の限界
自らの「意思」を過不足なく「言葉」というものに置き換えることに不可能性を感じる。特に感情を言葉にする際、私は完全な置換語・一致語の発見ができない。往々にして最も類似する表象、もしくは私が思うところを包含するであろうと主観的に考える語を使用しているに過ぎない。

(2) 他者との一致における限界
私が自己のうちに定義する「言葉」と、相手が定義している「言葉」の完全な一致が極めて難しい。私が使用する「楽しい」という言葉は、受け手が考える「楽しい」という言葉が表象するものと完全に一致し得ない。しかしこれは「数値」には当てはまらない。なぜなら数値は曖昧性を持たない、一意な存在であるからである。ただし、「数値」から派生する印象には当てはまる(「100」という数値を大きいと感じるか、小さいと感じるか)ため、全体としてみれば完全な一致は極めて難しいと認めざるを得ない。

(3) 伝達の確認における限界
試みられた「言葉」による伝達が、完全な成功を遂げたのか無残な失敗に終わったのかを正確に確認する術がない。すべては相手のフィードバックから受ける印象を、主観的に自己処理し勝手に判断するのみである。

(1)は(2)を、(2)は(3)を助長し、伝達の正確性はますます劣化していく。

言葉は、完全に正確かつ適切に意思を伝達できるものではないと思います。
そういう言葉についての評価を、自己の中で強固に保ち続けなければ、コミュニケーションを積極的に取ろうとする意欲は消滅する気がします。

気をつけようと思いました。

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