時間奪われるのが嫌だという話

多様性という言葉が話題になっている。それぞれの人が持つバックグラウンド、性格、性的志向、などなどに対して、違いを尊重し合うことが重要である。

最近、私は「違いを尊重し合う」ことの壁を感じている。他人のことを理解することができないのだ。

 生まれてきてから今までに歩んだ人生は誰一人として同じものではない。したがって、あらゆる面において違いが生まれることは理解できる。そして、それらのほとんど(大多数に害を与えるような極端な思想などを除く)は世に受け入れられるべきであることも分かる。しかし、自分とは異なる思想を持つ人間がどうしても受け入れられない。自分に合わせてほしいと思ってしまう。特に、「時間」に対して価値観が理解できない事象が発生しやすい。

例えば、集合時間に遅れてくる人がいる。私はそれ自体は問題としていないのだが、それに対するフォローの仕方に理解できないことが多い。遅れるのなら、何分後に来るのかをセットで報告するべきではないかと思う。乗り換えアプリやGoogleマップを見れば、おおよその到着時刻を想定できるはずなのだから、大した労力ではない。ちょっと遅れるくらいですぐに待ち合わせ場所に着くのだからそこまで気にする必要がないのでは?と言われそうだが、私はそうは思わない。そんな曖昧な時間軸で生活している人に、私の時間を振り回されるのはごめんである。だから、特に何時に来るという連絡が無い場合には、こちらから勝手に予定時間変更の連絡を入れる。そして、近場で買い物をすることで時間をつぶすことにしている。(じっと待つのがとにかく嫌なので。)

 他、仕事中に「この話って何にもならなくない?」という話題で足を止められるのも嫌いだ。どんな無駄話でもそれが巡り巡って思わぬ所で役立つことがあることは理解しているが、如何せん確率が低いことに時間を割きたくない。あなたのどうでもよい話より、目先の私がやるべきことに労力を注ぎたい。
だから、会議で私が関係ない話に移った時は議事録を書くふりをして雑務をしているし、たまに話を振られた時には「私に関係ない話なのであまり聞いてませんでした」と返してその場をやり過ごしている。

以上のような感じで、私は時間を他人に奪われるのが非常に嫌なのである。

こういうのってZ世代にありがちなのだろうか?

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