京都アニメーションの評価に関する論考

今日、話題の「劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン」を観て来た。その後、ツイッターで人々の評価を見ていたのだが、何やら「京アニはやっぱ作画がすごい」だの「京アニの作画はリアルにこだわりすぎてうんざりする」だの、作画に評価の焦点が向けられている。

確かに京都アニメーションは作画がきれいで有名である。しかし、だからと言って作画の良し悪しだけで作品の評価を決定するのは、おかしい。というより、作画以外のクリエイターを馬鹿にしている。

京アニの作品の真髄は絵ではない。そう断言できる。

そもそもアニメ含め、映画は絵と音とストーリーの総合芸術である。そして中でも特に重要なのは、演出だと思う。

すなわちストーリーのどの場面をどのように客に見せるのかが重要なのだ。その演出を、絵やら音やらで決定していくのが監督の仕事である。

ここでつらつらと京アニの監督陣がいかにすごいかを述べても誰も興味ない(多分本格的な論考を書ける)と思うので、みんな大好き「君の名は」の新海誠の戦略を一部見てみる。

君の名は 顧客感情

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正直、完璧な事業立案・マーケティング方法だと思う。「顧客感情の理解」から作品の演出方針を決定する。しかも細部がかなり細かい。そりゃ、感動作品として売れますわ。さらに新海誠はRAD(某遺伝子系ミュージシャン)を起用して、若い客の感情を揺さぶるために音響を効果的に使用している。

結局、この軸がしっかりしていないといくら絵がきれいだろうが、有名音楽家を起用しようが売れないと思う。演出についてのビジョンが明確で、自分の理想を的確に再現できる能力が、監督に必要なものであり、そこが一番作品の評価で注目されるべき点ではなかろうか。

しかし、そういう監督のビジョンとかは所詮骨組みに過ぎない。そこに音とか絵とかが肉付けされてアニメになるのだから、見ている人はその表面的な「絵が綺麗」とか「この主題歌がエモい」とかで評価を決める。確かに絵は作品の良し悪しを決める大事な要素だが、もっと根本に作品の大筋にかかわる演出っていう要素があるだろ、って思う。

確かに今回の「ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン」は作画のリアリティーでは今まで見て来た中で一番すごかった。でも、だからあれが良作とか、京アニの作画はすごいからほかの作品も良作とか、それは違うと思う。

他の作品には、他のすごい監督の演出ビジョンがあって、それを完ぺきに再現できる監督の技量があるからその作品が評価されてる。だから同じ京アニでも監督が違えばビジョンも違うし、作風も全然違う。作画のクオリティーは同じでも。

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