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コミュニケーションに必要なのは知識や技術よりも想像力

その努力、本当に合ってますか?
この記事は会話の苦手な私と、コミュニケーション力に悩む人へ向けて書きました。

ここ最近、会話が苦手だからトーク力を磨こうとか、聞く力を身に着けようとか、教養を深めて知識を蓄えようなどとがんばる人が増えているように思います。

書店にも様々な会話ノウハウ本が溢れていて、それは今を生きる現代人がコミュニケーションに何らかの苦手意識を持っていることの証だと思いますし、私もその一人であります。

話し方、聞き上手、知識と教養。その努力は正しいと思います。
ないよりはあったほうが良いに決まっているから。

ただ、私の結論から言うと、本当に必要なのは「想像力」であり、もっと言えば「相手の状況や心理を察しようとする姿勢」無くして上記の努力をしてもムダだとすら思っています。

想像力を欠いた技術がもたらす結果


想像力を持ち合わせていない人がトーク力を発揮しようとすると、相手が退屈していることを察することが出来ずに長話の独壇場で滑稽な独り舞台を踊り続けることになりがちだし、

想像力のない人が聞き上手になろうとしたって、相手の本当に話したいであろう部分にフォーカスできる質問が投げかけられるとは到底思えません。

人間心理に関心を持たない人が知識で頭でっかちになったところで、それは会話ではなく「知識のひけらかし」「相手の知識不足を指摘する論破マン」にしかならないと思います。

そんなわけで、コミュニケーションの本質は他者への関心であり、気持ちを尊重する姿勢なくして技術や知識でどうにかなるものではないと思っています。

風呂に入ってないやつがいくら服装だけ小奇麗にしていたってその清潔感はすぐにボロが出ますし、日本語でロクに会話できないくせに英会話教室いって海外の人と流暢にコミュニケーションできるかというとそうではない気がする、といったように。

想像力を持ち合わせずにコミュニケーションの技術だけ高めるって、それくらいズレてる気がするんですよ。

一人の想像力の欠如が何万人を怒らせる

最近Twitterを眺めていると、やれ「ポテサラくらい自分でつくれ」だの「帝王切開はラクしてる」だの、無神経な言葉で傷つき怒り狂っている投稿が散見されます。直接関係のない人までその投稿に共感して心を乱しストレスが何万人に広がっていく異様な環境。

その投稿が事実か否かはさておき、たった一人の「他者への想像力を欠いた無神経さ」が最終的に何万人をブチギレさせているわけです。

結局、人を怒らせたり不快な思いをさせる人は共通して「自分の価値観」がすべての規準であり、人の弱さや辛さに無頓着である気がしてなりません。

もっと相手の気持ちを想像しましょう。
もっとその人の1日、1週間を想像しましょう。
自分が何を話したいかではなく相手が何を思っているのか想像しましょう。

たとえば一つの訓練法として、映画など物語を楽しむとき、主人公だけでなく悪役にも感情移入して立場を想像してみるとかも面白いですよ。
なぜこのような思想に至ったのか、これだけの悪の軍団を率いるプレッシャーが過度な言動に繋がってんのかな~とかね。

いろんな人の立場や気持ちを想像すると「視点」が増えて、視点が増えると「引き出し」が増えて、物事に対して寛容になれる幅が広がるんじゃないかな~なんて考えたりします。

誰もが自分の人生における主役でありながら、コミュニケーションにおいては相手を主役として、あえて脇役に徹するほうがスムーズに事が運ぶなぁと思う今日この頃です。

まぁ偉そうなこと書いてますが私がそれを完璧に実行出来ているなら
恋人と朝まで6時間口ゲンカしたりしないんですけどね。

だって書いてますやん、会話が苦手な私に向けて、って。

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