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流れと場と建築

スマホ画面をフッ素コーティングすることが現代人とインターネットとの接触を容易にする訳ではないのと同様に、建築の表層的な佇まいをキレイにしたところで人々と建築内のアクティビティとが結びつく訳ではない。

ここで言うフッ素コーティングとは建築のパッケージデザインではなく、形態も含めた全般的なものだ。建築が段々畑や丘、公園のようになっていたり地面と連続していく曲面があっても同じである。建築は場所であってはならない。人の流れの淀みであるべきなのだ。

伊東豊雄氏はかつて東京を「サランラップシティ」と呼んだ訳だが、空間内に巻き起こる人間による生命現象(商業、娯楽、住居)にサランラップをかけただけの表層に投資された都市としての東京は、スマホ画面にフッ素コーティングをかけたに過ぎないのかもしれない。

磯崎新氏も言うように、都市とは街を通り過ぎた後にそっと頭の片隅に残る残像である。

例えば新宿から秋葉原に移動する過程、渋谷から池袋に移動する過程こそが1人が感じる都市の外観であり、断固とした形を持つものではない。それはネットワーク状に重複して広がる1人1人の移動する軌跡が作り出したふんわりとした領域なのであって、一定の枠に留まった物質ではない。都市は常に変化し、今日と明日では都市の様相が異なることは、毎日乗る電車の顔ぶれを観察すれば分かるはずだ。大都市であればあるほど同じ電車に乗っている人の顔ぶれが多様に異なってくることはその分かりやすい例だ。

都市内での移動はより速く、より大きくなり、1人が感じる都市はより広大になっていく。そして1人1人の立ち寄る場所のネットワークの重複が起こりやすくなるから都市が持つ商業価値も上がり、より多くの企業参入が起こり、それがイノベーションを相乗的に引き起こしていく。文化の新しい潮流が生まれるのが東京であることもそれをよく示す。より多くの人が集まればより分かりやすい共通言語が必要とされ、言語の進化と共に新たな文化なるものが起こるのだ。

シリコンバレーは大都市ではないが、Google・apple・facebook・ebayが同じ場所に集まって本社を構えているのは面白い。なぜなら、特定の場所に本社を持つ理由が無いIT企業であるにも関わらず皆シリコンバレーに集まって肩を寄せあっているからだ。これは同じ都市ネットワークにビジネスチャンスを狙うほうが、アメリカの広大な大地に分散して狙うよりも効率的であることの証拠だ。いくらネットが無限大の広がりを持つとは言え…いやだからこそ取っ掛かりとしての都市が必要な訳であって、ソフトなネット空間に対するハードの都市としてシリコンバレーがビジネスのターゲットとなっているのだ。

さらに都市同士も繋がり、国全体に都市内の相似形態を伴ってネットワーク状に人間の軌跡が広がっていく。東京から新潟に行くほうが、新潟を南北縦断するよりも速い。もっと言えば、陸路で東京から函館に行くほうが、長崎から宮崎に行くよりも2時間速いのだ。大都市である程に都市間ネットワークもより強靭になっていくことが良くわかる。

しかし今重要なのは、都市が個人の行動軌跡のネットワークであり、形ではなく体験として記憶されるということだ。

建築は物質か体験かという議論があった時、僕はそのどちらともに賛同したい。なぜなら、人々の流れの中に淀みが生まれた結果に建築が必要とされるのであり、場所が流れを引き起こすのではないからだ。物質が体験を引き起こすのと同時に、その体験こそが物質を必要条件として成り立っている。

この相互依存関係には建築家は多いに苦しめられるが、実際にどれだけ素晴らしいとされる建築があったとしても、そこに活気が無い建築も多く見受けられるのも確かである。近代建築の保存運動が良いことのように建築家界隈では賑わっているが、そもそも保存しなければ成り立たない建築こそが場所しか提供していない、流れの淀みになっていない建築なのではないだろうか。

妹島和世氏は、家の庭に咲いた一輪の桜の1つ1つが街並みを決定していく、街とはそういうものだと述べる。まさしくその通りで、街の外観はそのような小さな建築群の連続ドラマである。建築群の連なりを通過する行為が街を体験することであり、それは1人1人違う。人の数程に街がある。

街から建築を考えていくと、いかなる建築でさえ、それは傑作になり得るし、駄作にもなり得る。場所は流れのある所に、必然的に見出される進化のベクトルが発生するからである。だからそれは場所柄ということも多いに関係する。流れの無い所に場所を見出すことは(一般的に)建築それ自体では不可能だからだ。

つまり、ビルバオ効果に見られるような一過的な話題を作ることはできる。ルーブル・アブダビや東京スカイツリーのように際立った建築作品は人を引き込む種になるが、そこに持続可能性は無いだろう。それこそスカイツリーは商業施設を付属している訳だが、妹島和世氏の言うような柔らかな連なりの中に街を見出すことはできない。自然発生的に発達してきた都市にはそれなりの強い流れがあり、それは進化してきたものだ。都市の進化は人の流れの進化に等しい。

特段、ビルバオ効果を否定している訳では全く無い。人々を引き込む種が、街に進化をもたらすからだ。実際にビルバオは街全体がアートを主軸とした観光都市に進化し、持続可能性を持っている。ドバイも同様だ。進化した結果に新しい流れが生まれたのだ。

中村拓志氏の東急プラザ表参道は流れの引き込みとしては秀逸である。大衆受けしそうな鏡のアート空間をエスカレーターの周りに配して元々ある大きな流れを引き込むだけでなく、引き込んだ先には上にある広場から自然光が降り注ぐ吹き抜けがあり、さらに先には都市のオアシスのようなすり鉢状の広場がある。鏡は外のアクティビティを中に、中のアクティビティを外に映し出し、動的な外観となる。

そこに都市のオアシスとしての広場があるだけでは一過的なビルバオ効果なるもので終わるが、そこに流れがあるからこそ東急プラザは表参道の交差点にふさわしい建築となっている。

平田晃久氏の設計したsarugakuは絡まりしろという視点で人とテナントを繋ぐ建築を作り出した訳だが、こちらは元々流れがない場所に絡まりしろなるものを作り出したため、閑散としてしまっている感は否めない。どれだけ論理的に完結し、美しい建築作品を作ったとしても、それは人々の流れに適切に馴染めない限り彫刻でしかないのである。ここではその後の持続可能性ということも考えると、ある種ビルバオ効果なるものに商業需要を担保したほうが良かったのかもしれない。

結局何が言いたいのかというと、建築≒場という思想が割に合わないということだ。場は人の流れの中で必然的に見出されるものであり、例えそこに空間が無くても場はできる。ポケモンGOで何もない道端や駅前ロータリー、神社に人々が集まったように、人の流れは場を見出すのだ。場が流れを生み出すこともあるが、それは一過的なものか、その一過的な流れが進化したものだ。建築家が目指すべきはその進化を見込んだ建築であり、さしあたり広場を作るだとか、ベンチと植栽を置いておくだとかいう安易な思想は失敗しかねない。流れの淀みが場を作り、場が建築を必要とするのであり、その逆ではないのである。

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