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不意打ちは美学か。

毎日の中で強烈な美しさ、感慨深さ、感動を味合うことがある。少し大袈裟にそれらを「美学」って呼んでみると、私達がその美学を感じ取るためのパラメーターは、主体そのものよりも観測した環境条件によって大きく異なるのではないか。僕はそんな仮説を思いついて、この文章を書き始めた。

なぜいきなりそんな事を語りだしたのかと言えば、僕は不意打ちこそが日々の生活に豊かさを与えてくれる源だからだと思うからだ。

川辺から鳥が羽ばたく瞬間。
スポーツカーでアクセルを踏み込む瞬間。
飛行機の窓から陽光が差し込む瞬間。

それらの空間体験はごく短い時間感覚の限られた記憶の中で反復されながら、記憶としての厚さを増していく。まるで記憶の中にしか事実が存在しないかのように、わずかな時間感覚のワンシーンを切り取って強烈な印象を残していくのである。

極小までに微分化された空間体験と時間感覚の心理的一致。それこそが記憶をより一層美化し、強固にし、美学のパラメーター値を高めていく。

メディアという概念の本質

昨今の音楽トレンドではイントロの3秒が重要視されていると言う。サブスクで簡単に音楽をスキップし簡単に新しい音楽に出会える時代では、聞き始めの3秒のみで、3分もの長い時間を耳に費やすに値するか否かを判断するのであろう。同様にショート動画でも、いかにメインの瞬間までを早く見せるか、多くの動画が工夫を凝らしている。

タイパを求める時代トレンドと共に、物事を待ち続けられる時間の閾値も小さくなった。信号機の時間は変わらないのに、それを待つ人間はよりストレスを感じやすくなった。親指をスワイプするだけでは信号を青に変えられない事実に、どれだけの人が血圧を高めているのかと考えるとディストピア的だ。

そんな時代だからこそ、スマホエンタメで得られる体験には不意打ちが溢れている。そこに予定調和は無く、予期せぬサプライズがあり、それ相応の時間が流れる。面白く楽しく刺激的な情報を見ているその瞬間はジャンクフードのように消費される。いわばそれらは、不意打ちの連続ドラマである。

どのようなメディアであろうと、この不意打ちこそが美学のパラメーターを高め、空間体験と時間感覚との結びつきによって記憶が強固にされる。車の運転感覚を味合う肌も飛行機の窓もメディアであるし、私達の眼球自体もメディアとしての役割を成しているからだ。

マーシャル・マクルーハンが著書『メディア論』で述べた言説は有名だが、メディアは私達の記憶に、微分化された瞬間の空間体験と時間感覚とを刷り込んでいくのである。その本質を、僕は不意打ちだと言いたい訳だ。不意打ちの無いメッセージに美学的に反応するのは難しい。(それを補完するのが学問的知識なのか)

発車ベルと音楽

山手線の原宿駅。そこで耳にする発車ベルにはいつも魅了される。原宿から表参道に広がる賑わいとは裏腹に、まるで広大な自然風景を前にエレキピアノを弾いたかのような澄んだ美しい音色が耳を優しく包み込むのだ。目で見る都市風景からは想像のつかないほどに透き通ったメロディによる不意打ちによって、私はいつも感動する。

それは確かに美学としての価値を僕に提供してくれる。都市に広がるサウンドスケープは、オペラシティで聴くようなキレイに成立された学問としての音楽より不均一で乱雑で、対比に富む。そんな視聴条件によって不意打ちが引き起こされ、僕はオペラシティにいる時よりも原宿駅の発車ベルを聴いた時の方に美学を感じてしまうのだ。

つまり、メディアの種類ではなく、メディアの環境条件の方が、美学へのパラメーター値への影響が大きいのだと思う。正装で席に座らなくても、カジュアルな服装で都市を歩いていれば美学を感じ取る事が出来る。

毎日に溢れる不意打ち

こうして考えると、美学なんてものはすぐ近くに溢れている。


3週間のヨーロッパ周遊ひとり旅をした時、僕はロンドンからローマへ飛び立つ飛行機の空港を間違えてしまった。午後3時くらいのフライトのはずがガトウィック空港とヒースロー空港を間違えた結果、夜7時の便に乗ることになった。

だが、その夜間便からはパリの夜景を真上から眺めることが出来た。しかも席はビジネスクラスだった。旅行計画に全く想定の無かった不意打ちによって、記憶が何重にも強固にされた美学を味合うことが出来たのだ。

夜間便から見たパリの夜景(2019年9月)

さらに、ローマに取っていたホテルの代わりに人生初の空港泊を経験した。そこで体験したのは、充電器の周りに形成された謎のコミュニティだ。出身地も年齢も性別も宗教も何も関係なく生きている人々が、ただ電気を求めて1箇所に集まるのである。見ず知らずの人に充電端子をシェアする体験も、立派な美学になりえた。

その空間体験と時間感覚は僕の中で何重にも増幅されて強固になり、本来の事実以上の記憶へと昇華された。

この不意打ちに出会うことこそが、僕の楽しみの1つになり得ている。それは今後の人生にとっても大切な視点で、実際にそうしようと努めてきた。

特段、それは転職するとか新たな出会いを求めるとかではなくて、もっと身近な毎日の生活習慣や会社内での働き方でも工夫することが出来る。それは長いスパンでの予定不調和への期待ではなく、短いタイムスパンでの不意打ちへの欲求である。本来ありもしなかった(=記憶にすら残らなかった)事実が、不意打ちという環境条件によって美学へと変わるのだ。



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