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文化とは何か?

宇宙人が日本で人間観察をしている。「どうやら人間の中には身分があり、その印はネクタイの有無だ」と結論付けた。そんなメモを信じて他の国を観察したとき、彼ら宇宙人は日本人こそが世界で一番偉い身分なのだと勘違いするだろう。イギリス人とニューヨーカー、上海のビジネスマンもそこそこだろうが、建築家はスーツをあまり着ないから低く見積もられるハメになりそうだ。つまり宇宙人は、異なる民族で同じ文化が見られたとき、それが歴史の共有によるものなのか、環境への適応なのか見極めが難しく、因果関係なしにネクタイと身分とを直喩的に結びつけてしまうのである。

だが実際に私たち現代人が他の文化を見る時、その中にネクタイを見つけようと必死になっている事を否定するに足る説得力はない。人間にとって文化という単語はそれを当然のように許容してしまう怖さがある。文化という単語はそれ自体曖昧で無意識のうちに日々使い倒しているものの、その本質を炙り出すことは容易ではない。だからこそ、明確な定義よりもその周縁部について考えていくことの方がより建設的だと感じる。

設計と文化

「エッフェル塔を設計したのは誰か?」という簡単に見える疑問があるとする。あなたは即座にギュスターヴ・エッフェルだと自信満々に答えるが、それは本当なのだろうか。初めて飛行機を設計した人、タイタニック号を設計した人、アポロロケットを設計した人。確かにそういう人は実際に存在し、偉人として称えられるべき人達だ。だがもう一歩引き下がって考え直した時に、それらの本当のデザイナーは風であり、空であり、海であり、宇宙そのものであったことを再認識できる。つまり、設計における人間の役割とは生まれるべきデザインの可能性の波を分析し、自然環境の意思を具現化することに他ならないのだ。

原理主義者の多くは、「文化とは風土という制約条件と人間とが生み出す平衡状態のことだ」と力説する。「自然環境を住みこなす手段として道具が生まれ、言葉が生まれ、建築も生まれた。世界で同時多発的に文化が発生すれば、北欧と日本の東北地方のように似通った文化が生まれ出ることは当然で、それはチャールズ・ダーウィンも認めてくれるだろう」と。確かにそれは間違った言説ではないし、現に私たちの生活は自分たちの住む自然環境に順応するように進化している。だがここで大切な論点が、それが資本主義を含むか否かであり、これは現実として避けては通れない議論である。

ごくありふれた田舎町で、最安で最短で簡単に小屋を作ろうと思った時、まず私たちが向かうのは木が生い茂った森林では無い。車で20分くらい行った所にあるホームセンターであるはずだ。まるでアラスカの原住民がモダンな住宅に住み、アフリカの原住民がipadを使って日本のTV取材に応じるのと同様に、田舎町における独自文化など存在せず、資本主義の流れの中で平準化している。つまり、資本主義がはびこる現代において地域の制約条件が生む独自の地域文化は生まれ得ないのだ。日本で古くから受け継がれてきた伝統工法における仕口や継ぎ手が失われる危機にあるからといって、それを復活させることに文化的な価値は無い。なぜなら創意工夫は制約と欲望の妥協点として発明されたその時代ごとの究極の解法だったからであり、資本主義が制約を取り払ってくれた現代において創意工夫にかける負担は装飾的な無駄といっても過言では無いのである。

都市と文化

私たちはよくヨーロッパの街並みに憧れる。それは単純に無いもの見たさみたいなワクワク感から起因している場合もあるし、一見すると統一された風に感じるそのスカイラインに起因する場合もあるが、現代に住むヨーロッパ人からすると、決して憧れの対象などでは無いという意見もある。

人類が国際的に抱えている大きな問題として地球温暖化やコロナ蔓延があるが、日本人には馴染みが薄くなりがちな移民問題こそが、ヨーロッパの都市構造の変化を考えると最大脅威である。例えばスイスでは国民の25%、オーストリアでは15%、ドイツでは10%が外国人に占められている。スイスとドイツの国境にある街バーゼルは平和で静謐で穏やかな空気感が街中を覆っていたが、その都市の住人は4人に1人が外国人だったのだ。この事実だけでは特に脅威を感じないが、ここに時間軸を加えた時、移民問題と都市構造の相互性が炙り出されてくる。

歴史的にヨーロッパは城壁都市が多く作られ、都市そのものが国家権力を持つほどの勢力を持っていた。城壁の内側は家族も同然、城壁の外は未知なる存在だ。だからこそ、ヨーロッパの都市にはいまだに「みんなのリビングルーム」として中心部に大きな公共広場が設けられ、季節ごとに競馬や市場を住宅の窓から楽しんでいた。城壁都市の住人同士は一丸となって1つの街を作ろうとする連帯意識があり、日本と異なって街並みが整然と建ち並び、外観に対する美意識が蓄えられていったことは芦原義信氏の書籍でも窺い知れる。

だが移民が街を占めるようになると、その場所で築かれてきた都市が、住人に根差した存在で無くなるという現象が起こるようになるのだ。昔ながらのスイスの住宅を訪ねてみれば、出てきた人の生まれ育ちはイスラエルだったりする訳だ。特段彼らの宗教的、風習的な差異などから差別が生まれ出ることも多いし、その議論を巡って住人同士が揉める場合もある。移民問題が都市構造を変えてしまう脅威が既に20年近く続いているのだ。一方で日本は平和である。僅かな移民こそ存在するものの、東京の街を作った人間と住んでいる人間は合致しているし、現にそれは更新され続けている。私たちがヨーロッパの街並みに平穏な光景を想像する以上に、ヨーロッパの人々は都市と文化が完全に合致している日本の街並みに憧れを抱かずにはいられないだろう。

https://www.swissinfo.ch/jpn

経済と文化

もし文化の程度がトイレの落書き度合いで分かるのだとしたら、逆算的に芸術と経済とは相反する事を認めざるを得なくなるだろう。芸術は労働の無駄使いで、それは芸術に頼らないと満足できない低俗文化で、芸術が生まれない社会こそが文化の進んだ社会だと。しかしトイレやシャッターに描かれる芸術はしばしばポップカルチャーとして賞賛されるものの、決してそれは文化の程度を表す指標としては使われていない。文化価値に差異は無い。それにも関わらず、批評家ジョン・シーブルックによれば、文化差を階級差へと帰着させ、階級差を平準化する所に資本主義の目的があるとされる。人々は必要でもない物に消費者として奉仕することに満足感・優越感を覚え、いまや旅行でさえも商品として扱われ、SNSはその傾向を後押ししている。文化はもはや存在ではなく情報として扱われ、「情報」というパワーワードが文化の本質をさらに見えにくくしている。

「フランス人はパンばかり食べている。なぜなら小麦粉が簡単に栽培でき、経済性に最も優れているからだ。それこそが文化の起源だ!」という平凡な説明は否定できなければならない。なぜなら、フランスでは平野部での穀物のモノカルチャー化が国の政策として進んでいるからであり、こうした生産性を高める努力は地域経済の多様性を縮減し、雇用を削減することにもつながっているからだ。日本で最も経済性に優れているカップラーメンが食文化としてあるからと言って、それは文化ではない。少し高くても寿司こそが日本文化と呼ばれ得るものであり、合理的な理由から派生する風習は文化とは言い難いのが現代である。

高層ビルが東京の文化では無いのと同様に、低層で高さが均一の街並みもパリの文化ではない。200年前にオースマン男爵が古い街並みを一掃して超計画的で超合理的(?)な区画整理を行った破壊の象徴こそがパリの都市構造である。無駄に街並みに固執した結果に不動産価値が跳ね上がり、首都の空間需要に対応しきれていないが故に、かつて芸術の都と呼ばれていたパリから芸術家達が流出して行った歴史はパリの負の遺産とも呼べるものだ。その意味で言えばよっぽど東京の街並みの方が歴史を受け継いだ文化的都市のように見える。東京は江戸時代から現代に至るまで、その経済的な空間需要に対応し続けながらアップデートされ、それでもなお都市を計画的に再設計することなしに「歴史のショーケース」として過去の記憶を未来へと受け継いでいる。経済と歴史の妥協である。

旅行と文化

高松でうどんを食べる。現地で食べる本場の讃岐うどんはたまらない。思っていたよりもコシがあり、しっかり噛まなければならない。ここでしか得られない体験。ここでしか味わえないと思っていた讃岐うどん。そんな中で東京に帰り、スーパーマーケットで冷凍された讃岐うどんを見かける。まさか高松で食べるうどんとは比べられないだろう…と心の片隅で思いながらも家で食べてみる。これがまたおいしい。高松で食べるのと遜色ない。私たちは高松と言えば大抵うどんを思い浮かべる。だが、現地で食べても東京で食べてもその味が変わらないのだとしたら、私たちが思い込んでいた高松のうどんは一体どこに存在するのだろうか?

様々な場所に旅行をしていると、文化などと呼ばれるものはどこにも存在しないのだと痛感する理由が2つある。まず1つ目は、観光迎合的な文化である。一見その地域独特のものに見えたとしても、それが観光のためだけに特別扱いを受けながら継続する物は数多くある。そして2つ目は経済的な文化である。台湾に行って原付バイクが通勤の足となっているからと言って台湾と原付バイクを文化的に結び付けのは間違いである。それは世界中で同時に発生する経済過渡期であり、資本主義と人類とが織りなす平衡状態である。

だが確かにその中でも地域的差異があるのは確かで、それこそが旅行をする中で見出される文化と呼ばれるものであろう。タイ人はみんな笑顔で、デンマーク人は少し冷たい感じ、スペイン人は他のどこよりもフランクで明るいというイメージ。その言語化して伝えるのが難しい部分にこそ文化の本性が眠っているように感じる。見えない文化。それこそが私たちが感じなければならない文化の正体であり、それは決してinstagramを通した情報としての認識から分かり知ることのできるものでは無い。

遺伝と環境と文化

日本人にとって「会う」と「合う」という言葉の違いが簡単に分かるように、goの過去形がwentであることや、水がwaterであることは英語圏の共通認識だ。だが、それをどこで学んだかと聞かれて学校と答える人は義務教育を過信しすぎているように感じる。言葉は大抵身近な人、家族や親戚、友達やTVから自然に学んでいくのである。つまり、人間は環境依存的に言葉を学習していくのであり、それは遺伝ではないし、文化でもない。そして言葉自身は生存競争の中で勝ち残った単語のみが受け継がれ、例えばwaterが今に生き残れているのはその独特な発音による耳への残りやすさと頻繁に使われた特性に依存している。まるで世界中で8000近くの言語が消滅しようとしているのと同じように小さな単語スケールにおいても自然選択による生存競争が繰り広げられているのである。

チャールズダーウィンは生物進化の特徴2つ「複雑性」と「多様性」を3つのシンプルな原則のみで説明した。1.個体間にはバリエーションがある。2.巣作り、結婚、食べ物などの資源には限界があり、生存競争が発生する。3.形質は親から子へ生殖で受け継がれる。これが生物進化のルールとルーツである。それでは文化はどう説明できるだろうか。生物と同様に自然選択を繰り返すことで文化も生物進化の類似性を獲得できるのだろうか?

例えば、学校で自分の成績が悪くなったとする。校長と担任と親とで緊張の面談が始まる。そこであなたはどう答えるだろうか。一般には以下のようになると考えられる。すなわち、あなたが西洋人ならば「すべての責任は僕にあります。宿題をせずにゲームばかりし、ろくに勉強に興味さえ示さなかった。反省してしっかりと取り組むことを誓います。」と答える。だがあなたが東洋人なら答えはこう変わるだろう。「すべての責任はこの学校にあります。先生の単調な教え方、冷房器具の無い学習環境の悪さ、感染症対策がなってないからインフルになったじゃないですか!」と。つまり、西洋人は個々人に帰属意識(成績が悪かったのは個人の勉強不足)を持つが、東洋人は社会全体(先生の教え方、環境、病気で悪くなった)に帰属意識を持つのである。これは個人意識やふるまいが文化に依存することの例えである。

一方で遺伝的に文化を捉えなおすこともできる。なぜなら、地球上の生態学的環境は4つだけ(砂漠、サバンナ、森林地帯、その他)であり、個々人は環境の違いに適応するが、社会風習は環境にあまり影響されないと考えることができるからだ。一般に人間の遺伝的多様性の大半は同じ集団内にあり、集団間の違いは5〜7%のみしか存在しない。だからこそ、文化の違いは個々人の変種の積層された社会現象の外観に過ぎないとの見方だ。経済学が時々刻々と変化する経済システムを説明できないように、文化も西欧人と東洋人の差を説明できないのだから、それは遺伝的な差異に他ならないのではないかと。

風習や伝統は親世代から子世代へと受け継がれていくが、その伝達効率を考えると友達や周辺の知り合いを通じた方が早い。前者を垂直伝達、後者を水平伝達と呼ぶが、一対多の方が一対一より早く、水平伝達の方が垂直伝達より早いのは自明である。宗教観や人生観は親に多く依存するが、UFO発見やタピオカといった一時的な流行は水平に伝達する。さらにいまや水平垂直に関わらず、SNSによってとてつもなく早く伝達していくのだから、風習や伝統は地域差に関係なく平準化していくのは時代の意思とも読み取れる。そしてこれらは遺伝的ではなく、環境的でもなく、文化によって伝達されるのであると言いたいが、ではその文化とは何かと聞かれてもその正体はいまだ掴めそうにないのが悔しい。

ペルーの村で水を沸かしてから飲むことを広めようとした医療従事者はその新しい習慣を広めることに失敗した。なぜならその村には「物には固有の温度がある」といった強い信念があり、水を沸かすことに意味を見いだせなかったのである。水を沸かすことと病気を防ぐことの繋がりが理解されなかったため、病原菌対策は文字通り水の泡となって消えた。論理的な正しさよりも強い文化。強くて見えない。遺伝でも環境でもない。難しい奴だ。

生活と文化

朝起きて最初に浴びる太陽光。犬の鳴き声。朝食。挨拶。着替え。スマホのチェック。音楽。そのどこに文化などあろうか。その朝食が和食なら文化でコーンフレークなら文化では無い。そんなはずが無い。毎日の何気ない全てが、文化そのものであると同時に、文化では無い説明もできる。埼玉人だとか、日本人だとか、東洋人だとか、地球人だとか、そんなのは便宜的に付けられた区別であって文化の差異では無い。私たちの生活は文化と呼びうるほどに高尚なものでは無いけれど、その瞬間瞬間が、かけがえの無い存在だ。

満員電車に乗ると感染するとかしないとか。テレワークが生産性良いとか悪いとか。アベノマスクが良いとか悪いとか。そんな些細な決断の先に文化の種が蓄積され、それを耕していくことが文化を育むということに繋がるのだと思う。毎日の生活が文化の可能性の波を広げている。

(参考文献) 
https://www.maff.go.jp/primaff/kanko/review/attach/pdf/190326_pr88_03.pdf
「農林水産省より」

アレックス・メス―ディ、「文化進化論」、2016年、NTT出版

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