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就活の学び

先日、就活が終わった。昨年末に思い描いた終わり方では決してなかった。しかし、だからこそ感得したものがある。それは「世界には色々な価値観があり、正解があり、出会いがある」ということ。転じて、確固たる自己なんて存在しないことをひしひしと感じた。ここでは就活の経緯と感想、そこから得た全体論的な学びを言語化し、今この瞬間の自分を留めておきたい。

1.駅の設計がしたい

僕ははじめ、駅の設計をしたかった。駅は都市にムーヴメントを与えられる唯一無二の動的な建築であり、普段は目に見えない都市のエネルギーが顕在化される公共空間だからである。そういう、都市と建築みたいな大きな視野を持って設計することに興味を持ち、空間というよりは街の一部を作ることに一層の興味があった。

だから僕は、某大手有名グループ企業の設計事務所にエントリーして、何回か選考も進んだ。面接ではひたすらに熱意を伝えたがダメだった。純粋に対策不足もあるし、設計課題で作ったものも斜め上を突いたものだったので、保守的な大企業では向かないと判断されたのだろう。

落ちたのは本当にショックだった。かといって他に駅設計で行きたい企業も無かったので、あらゆる会社を調べて出直すことにした。文章にすると一瞬だが、この期間は本当に辛かった。駅の設計をする事こそが、就活の着地点だと信じていたからだ。

2.むやみやたら

その後は焦った。ハウスメーカーやディスプレイ、まちづくりや組織設計事務所の出せそうな会社にはみんな出した。結果的に内定を頂いた企業もあったが、当の自分も内定を目的にして「側」を取り繕っていたから、腑に落ちない感覚を覚えていた。

会社ごとに割と時間をかけたのに、結局行きたくもない。なんという無駄な時間だったのかと反省したが、そうするしかない自分がもどかしかった。就活ってこんな苦しいのかと思ったピークがこの時だった。

3.原点回帰

そんな中で、僕が建築家を目指し始めた原点を振り返ってみた。それは9歳の時に初めて見上げた高層ビルである。東京駅を降り立ち、丸の内と大手町の立ち並ぶビル群に圧巻されたのである。これは他社のエントリーシートにもずっと書いていたが、冷静に考えるとそこに繋がる就活をしてこなかった点に気が付いた。そこで初めて、高層建築に携われるゼネコンを視野に入れてみた。

それまではゼネコンの設計は堅苦しい実施設計のイメージがあったから視野に入れていなかった。だけど偶然に参加した某ゼネコンの説明会で、その考え方はただの固定観念でしかないと気付かされた。その会社は高層マンションの設計から施工まで、丸ごと携われるらしかった。知り合いの伝手を辿って社員訪問したり新建築を読んで調べまくり、いつしかその会社が第一志望に変わっていた。

4.相性ってある

よく恋愛とか友人関係とかで相性という単語を聞くが、会社と就活生の間でも相性があることを実感した。

選考の中で適性検査を受けたのだが、僕は当時エントリーシートを出しまくっていて、何も対策をしないままにテストを受験しに行った。当然のこと無惨な結果だった。もう受験しながら無理だと感じていた。そして次の週には即日設計もあった。そちらも対策せずに行き、また斜め上な設計をしてしまい、これも無惨な結果だ、、と思っていた。

しかし後でメールがあって、「即日設計と面接の点数が良いけど適性検査が低いので、再受験してくれ」と通達が来た。絶対に無理だと思っていた即日設計だったが、僕の作りたい斜め上の建物と会社が求める建物の相性が合っていたらしい。僕はこの時に「駅の設計よりもマンションの設計の方が合っているのかも」と初めて実感した。選考中にそう思うのは時期が遅いが、、、

そうして再受験をさせて頂き、二次面接と最終面接にも通り、内定を頂けた。人事の担当者には本当に感謝している。あとで話を聞いたら、設計の役員の方がずっと僕を推していたらしい。その役員の方は最終面接でずっと表情が曇っていたので通知が来るまで僕の唯一の不安材料だったが、一安心した。

5.香水のような自己

12月から5か月間、就活のことしか考えられていなかった僕だが、だからこそ得られた貴重な学びがある。それは確固たる自分だと信じている自分は、差し当たって得た知識と経験の中で作り上げられた「虚構」であるということ。

芯と側という二面性が人間の誰にもあると思う。僕でいえば、いつも斜め上の設計をしてしまう芯の部分と、マンションの設計が適合していたという側の部分である。あるいは、高層ビルに原点を持つ芯の部分と、大規模な設計だったら駅でもマンションにでも更新できてしまう側の部分である。

それはまるで香水のようだ。全身に振りまかれた細かな粒子は、人間の芯から湧き出る体温によって、ベールのように人間の側を作り出す。芯が持続させる側の存在。

現代では多くの人が香水を振りまき、その日ごとの自分を演出し、自分の芯はそのままに側だけを更新していく。目に見えないにも関わらず、その人が通り過ぎた後のふわっと香る空気が作り出す固有の世界観は、人間の側が拡張された時間であり、空間である。就活を通して、その内側にある芯を探し出すことの意義について考えさせられた。それこそが「自分探し」ということなのかと。

6.かがみを見ろ

しかし、自分探しなんてする必要が無いことは、学部時代に学んでいた。それは神社の御神体が鏡であることを説明した内容である。結論を言えば、「かがみを見ろ」ということになる。以下は書籍やサイトからの抜粋ではなく、僕なりの言葉で要約した内容である。

鏡。それは3つの意味から成り立った単語である。過去(か)、我(が)、未来(み)。鏡という1つの単語が2つの時間に挟まれた現在の自己を表象しているのだ。
ここで「鏡」から『が(=我)』を抜くと「神」になることがわかる。つまり、神と鏡は『我』の有無のみで関係付けられている。だから自分にできることは我を高め、欲を捨てることだ。それが仏教で言うところの解脱である。
つまり本能に基づかれた制約から自由になるために、煩悩を断つことで神になれるという考え方だ。「神はあなた自身の中にある」と説いている訳だ。我を捨てて神になる、そういう内なる可能性を鏡で知るのである。

確固たる自己は鏡に映り込んだまさにその姿であり、自分探しなどする必要はない。そんなことを言われても就活生が探したいモノは見つからないが、確かにどこかで、自分の芯を大切にする点は貫いていた気がする。僕にとっての鏡は、適性検査落ちを救ってくれた人事の対応であり、役員からの評価であった訳だ。

7.好きな言葉と嫌いな言葉

最後に、僕の好きな言葉と嫌いな言葉を紹介させて頂く。

Chance favors the prepared mind. これが僕の好きな言葉である。つまり、幸運は準備をしている状態にしか降り立たないということ。側でいくら取り繕って綺麗な香水を作れたとしても、芯が反応しないのだ。ご縁とは、側ではなく芯に基づくと僕は信じている。

一方で僕は「人脈」という言葉が嫌いである。言語の定義は曖昧なので、補足すると、人脈をご縁と同じ意味で言うのなら構わないと思う。しかし、損得勘定で10年、20年後に使えそうだから名刺を渡しとくとか、SNSで繋がっておくとか、そういう繋がり方が嫌なのである。

会うべき人には会うべき時に会う。それがご縁だと思う。人間を線で捉える時点で失礼にあたる。ヒマラヤ山脈は、自らを脈とは考えていない。エベレストとかK-2とか、個々の際立った点がまとまって、Google Earthでマクロに俯瞰して初めて山脈が見えてくるのである。人間も同じ。人間は脈を形成するために存在するのではない。

また、憧れの人に今すぐ繋がることができても、自分が相手に認められる存在になってから会わないと損をするのは自分である。人脈なんて言葉を捨て、日々の自分を高め、成長し、ご縁を大切にすべきだというのが僕の意見である。もちろん、学部の友人やバイト仲間、寮の友人などは将来に渡って長く付き合っていくだろうし、その中で仕事に繋がることもあるだろう。だけど、それを人脈という言葉で道具のように扱うことが許せないのである。

芯と側で言うと、人脈とは側で繋がるような関係、ご縁とは芯で繋がるような関係だと僕は考えている。側の関係が芯の関係になることもあるから、人脈の全てが悪ではないが、それを目的にしていると香水だらけの仮面を演じることになる。

8.芯と側の二面性

これは全くもって就活の参考になるとか、ハウツーみたいな内容ではない。ただ、どういう世界に行っても芯と側のような二面性は判断の軸になり、生きる道しるべを指示してくれると僕は信じている。

来年からお世話になる会社にご縁を得た僕は、自分の芯を大切にしながら社会人として様々な香水を学んでいくことになるだろう。今思い描いている設計の仕事とは限らないことは容易に想像がつくからだ。それでも僕は、これから先もずっと就活で得られた大切な学び、芯と側の二面性を意識しながら、自分の生きる道を芯の意志を大切にしながら進んでいく。それこそが人事の方への感謝と同時に、就活で無駄にしたと感じた5か月間を取り戻す手立てになると信じているからだ。

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