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デザインの本質へ。

雪だるまと雪に残る足跡。とちらが人間の活動を強く表すか?

人間にデザインされたモノと、人間そのものの痕跡。そのどちらが他者にとって大きな存在として映るのだろうか。そんな事を考えた時、熱力学的なエントロピーに考えが到達するより手前の、もっと曖昧で主観的な「人間とモノの関係性」へと思いを膨らませると、デザインの本質のような暗示が垣間見えるような気がした。

そもそも雪だるまをデザインしたのは誰か。あるいは人間の足跡をデザインしたのは誰か。神か靴職人か。そういう答えのない疑問を重ねるうちに、僕は誰が何のためにデザインをするのか、そしてそのデザインは常に新しさを伴っていないとならないのか。そんな疑問が生まれた。

そこでここでは、デザインに対する僕の考えをいくつかの事例を通して文章化していく。

食事と器

子供用のご飯を作る。その時に考えなければならないのは、器の大きさであるという。

子供の食べる量が少ないからといって小さな器に盛ってしまうと、子供は「こんなに食べられないかも…」って思ってしまう。そうなると完食する気が湧かなくなり、食事が本来より遅くなってしまうのだ。

「食べる」動作のトータルな因果は変わらないのに、器を選ぶことによって「食べる」時間により多くの価値を含むことが出来るという訳だ。

器は、食事という行為では人間とモノの接点である。私達はその器を丁寧に洗い、毎日使い続ける。私達の食事というパフォーマンスを最大化するために、器というフォーマットを選択し、本来以上の喜びを食事から享受することが出来ているのだ。人間とモノの接点である「器」に対する価値比重を高めることで、食事の体験は十二分に豊かで幸せな時間になるだろう。

これは良い車に乗るとか、良いマンションに住むとか、良いスマホを使うとか、そんな見栄を気にする人に共通する考え方であるが、そこに否定的な主観を入れ込まない限り、そういう体験価値の高め方はより人間的で本能的な行為であると僕は思う。デザインの価値とは、本来あるべきパフォーマンスに対して、モノのフォーマットを整理することでより大きな成果を提供出来る点にあるのだ。

実存と表層

iPhoneケースがiPhoneに立ち現れる最外縁の表層であることを、アップルのデザイナーは後ろ髪を引かれる思いで見ているのではないだろうか。

賛否はあれど、iPhoneの画面はよく割れる。しかも交換費用は多額だから、大抵の人はケースを選ぶ。そうすることでスマホの傷を防げるし、ケースの差別化によって自己顕示欲も満たされる。そうやって作られた十人十色の多様な表層によって、iPhoneが織りなすデジタル世界の生態系はプラスチックケースが織りなす仮面舞踏会へと姿を変えている。人々が求めている実存(生のiPhoneパネル)に対し、表層(ケース)が呼応しないのである。

車をカスタムする人は少数派であるのに、iPhoneをカスタムする人は多数派である。カスタムする理由が自己顕示欲によるモノだとしても、車が持つボディパネルが本来の必要性を充足しているのに比べて、iPhoneが備えるボディパネルはその必要性を充足出来ていないのである。

この実存と表層という議論は多くの分野で兼ねてから重ねられてきた。プリウスの躍動的なデザインはその燃費の良さを象徴しないし、薄型テレビがその画面の明瞭さを象徴しているわけでもない。真善美に通ずるような実存が表層をそのまま構成する事は、とりわけ現代において滅多にないのである。

まるで、ゴシック建築に見られる生々しいフライングバットレスが教会内部の垂直方向を意識した荘厳な空間を実現させるようにして、実存と表層は切断される。それらに相補性はなく、ただ独立に互いの存在価値を並列させているのみだ。

昨今では3Dプリント建築が注目されているが、その多くはいかにもプリントしたかのようなペースト状に積層されたセメントが地層のように外観を成している。だが、その実存に対して建築に必要とされる表層(意匠タイル、吹付け塗装、ルーバー等)を備えるだけで3Dプリント建築への美的評価は大きく変わるだろうし、社会へと浸透する建築手法により近づくだろう。

実存を見せることより、表層を見せること。ある意味、偽装されたパッケージを見せることに現代では大きな意義がある。それはiPhoneの実存を求める以上に、必要な性能のみを取り出し、社会へ人間へと還元する姿勢である。

先進性と物語性

間違いなく、テスラは車の価値観を変えた。テスラは、車を走るための「道具」ではなく「空間」として再定義したのだ。だから人間からの入力ツールは最小限にして1つのラウンジを作り出している。そこにあるのはハンドルと中央のディスプレイのみ。「タイヤを付けたiPad」と呼ばれる文字通りの姿だ。ボタン、スイッチ、ダイヤルの全てが消され、フラットなタッチパネルへと還元されている。

昨今のミニマリズムやクワイエット・ラグジュアリーといった生活様式にも通ずるその空間構成は、特に若い世代の好奇心を十二分にそそり、車に興味ない人までがテスラに興味を惹かれている。

ただ、人間と車はもっと身体的な繋がりを持ってコミュニケーションすべきであると、僕は思うのである。テスラの先進性がSDV(ソフト・デファインド・ヴィークル)にある事実は否定出来ないが、必ずしもそれが人間と車のコミュニケーションにおいて最適解を導き出しているとは限らない。つまり、タッチパネルに触れるよりもっと人間に親しい手法で、人間と車のコミュニケーションが可能である。

イギリスの自動車メーカー、ジャガー。彼らが作り出す自動車には、機能やデザインをただ追い求めるだけではなし得ない高次なデザイン生態系が構築されている。

例えば車内のエアコン操作スイッチにはダイヤルが付いており、ダイヤルを押す/引くという動作を加えた3つの調整が1つのダイヤルで充足されている。テスラではタッチパネルの下の方に指を押し当ててスライドしないとならない(音声コマンドは別として)。

他にも、テスラには存在すらしないエンジンスタートボタンは、ジャガーの車では心臓の鼓動のように点滅しているのである。「ドクン!ドクン!」と、まるでジャガーという動物の心臓がそこにあるように車のコンセプトを体現しているのだ。エンジンを起動させる度に、ジャガーの心臓を感じながら、人間と車の意思が一致する。

他にもヘッドライトの内側やドアトリム、バンパー周りにジャガーのJをあしらった意匠が施されていたり、ジャガーの筋肉質な足元を表現したリアバンパーまわりの意匠がジャガーにしか作れない世界観を構築している。

車を買って、乗って、起動し、走り出し、車を降りるまでのトータルなUXデザインがジャガーでは徹底的に考え尽されているのだ。逆を言えばそういった価値観に対峙し、よりスマホのように車を扱えるようにしたのがテスラのUXなのであるが、僕にとって、ジャガーのような人間感覚を伴ったUXこそがデザインの向かうべき方向性であると思う。

そこにあるのは物語性であり、先進性ではない。だが、この物語性が持つUXデザインが時代の先を行く先進性にも勝る魅力を持っていることは軽視してはならない。車を降りて横から見た時に掻き立てられる、FRレイアウトならではのロングノーズ・ショートデッキの速そうなシルエット。国産車で言うとマツダもそうだが、そういった人間と車のコミュニケーションを最重視した美しい自動車が世界には存在するのである。

自販機的な意匠

2023年、JR東日本は「イノベーション自販機」の提供を終了すると発表した。それは全面がタッチパネルの自販機であり、子供向けに低い位置にタッチボタンを用意したり、年齢や性別をカメラで読み取ってオススメをピックアップしたり、はたまた天気予報やニュースをも流すことが出来る仕様になっていた。

2017年に始まったその自販機は明らかに時代の先を行く先進性を有していたように感じられるが、故障率と導入費用の高さで取りやめになったようである。

ある意味、自販機のデザインは時代を経ても大きく変わっていない。CokeONアプリを使ってスマホから購入する仕組みがあっても、自販機のハードウェアには「支払い」と「商品選択」と「取出し口」の3つが並べられ、誰が見ても直感的に使うことが出来るデザインだ。

自販機のような巷に溢れている汎用的デザインを「自販機的な意匠」だとすれば、JRの導入していたイノベーション自販機やテスラのような未知的デザインはそれに対峙する構図になろう。なぜなら、自販機的な意匠に徹底的に抗い、常識を疑い、新しい当たり前を模索しているからである。呼び方を変えれば人とモノの触れ合うデザインにイノベーションを引き起こしている訳だ。

この世界、疑うより信じたい。日頃から信頼できるモノの方が、画期的で先駆的なモノより好きだという考えは主流なのではないか。一人暮らし用の食洗機よりも目の前にあるスポンジ、ロボット掃除機より雑巾、自動運転より自分で握るハンドル。口の悪い人に言わせれば古臭いと呼ばれるようなその生活観念が、意外にも社会の中心を構成している。

間違いなく時代を引っ張っていくのは新しいことに恐れをなさない新規事業や新製品とそのアーリーアダプターであるが、それ以外の8割の人間とモノの尊厳を忘れてはならない。そんな時、「自販機的な意匠」は彼らを下支えする手立てとなる。普通が普通に存在することに価値を感じられる人間に、普通で困らないモノを提供する姿勢である。

ETCカード搭載車で料金所を20km/hで走り抜けたり、交通系ICで大袈裟な改札機を通り抜けたり、そんな昔ながらの普通は疑われて然るべきものだ。しかし、そういう根拠の分からない普通を全否定しない姿勢にこそ意味があると、最近はよく思うようになった。普通の内側で利益を出し、社会を回すことにもイノベーションと等価の努力が認められる。

モノと人間のビオトープ

ここまで、「食事と器」「実存と表層」「先進性と物語性」「自販機的な意匠」の4つを考えてきたが、僕がそれらの先に目指すべきものは、モノと人間のビオトープである。ここでいうモノとは食事や空間や建築、都市にまで拡大解釈できる曖昧な概念として捉えてほしい。

冒頭で僕は、フォーマット/パフォーマンスという主従関係を提示して、「デザインとはモノのフォーマットを整理して最大限のパフォーマンスを発揮させること」だと述べた。

僕は「モノが美しい」より「モノが美しくある」ことにより大きな価値を感じる。つまり、置き物ではなくて人間に扱われて初めて意味を成すモノの価値こそがデザインによって生成される付加価値なのである。光や音、匂いや温度によって異なるパフォーマンスを発揮するために、そのフォーマットを整えることがデザインのあるべき姿である。

缶ビールの味を変えるのではなく、缶ビールを開けた時のシュポッ!っていう音に対する価値。あるいはBluetoothイヤホンの蓋を片手で開ける瞬間への価値。

世界は意外にも、そういう些細なフォーマット整理によって本来以上のパフォーマンスを発揮することが出来ているのでは無いだろうか。僕はその些細なフォーマット整理を通して、人間の無意識レベルで豊かな生活様式を考えていきたい。

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