見出し画像

デジタルとアナログの距離

あなたの目の前にある小さなフロントカメラは、場所と存在の同時性を忘却させるための最適手段になり得ているだろうか?ZOOMがオンライン・コミュニケーションの新たなプラットフォームとして定着しつつあるが、それはアナログな人間をデジタルへと連れ添ってくれはしない。あなたの行動範囲は広がるどころか、生命維持装置としての機能空間の中に投獄され、フロントカメラの画角こそがあなたがデジタル世界で存在可能な領域となっている。つまり、デジタルに接続されたアナログな人間は、アナログな世界の表面でしかデジタルを扱えきれないのだ。私達がオンラインで共有できているのは「場所」ではなく「時間」であり、飲み会に行かない口実を時間からの解放によって1つ失ったのである。

デジタル化が人類に与える恩恵は数多と存在するが、その最たる物は大して人間の根幹を変えてはいない。私達は依然としてアナログであり続け、デジタル社会という大海原に生きている事の錯覚を、湖の表面を舐めるようにして弄んでいるに過ぎないのである。

手に宿る知性

ザハ・ハディドという建築家が新国立競技場のコンペで話題になった。彼女は流麗な曲線を使った建築を得意としたが、それはコンピューターによってではなくドローイングによって生まれたアイデアだ。彼女の思考をコンピューター上に投影するのではなく、彼女の思考がドローイングと共に表出されていくのである。これはほとんどすべての建築家に当てはまることで、アイデアが脳から現実世界へ投影されることはほとんど無く、アイデアとドローイングは同時に発生するのである。脳の中に浮かんだキレイなイメージはドローイング共に汚されていき、現実のアイデアとなって表出していくのだ。

多くの人は文字を書く行為が文明発達を促進したことを信じるが、実際はその逆である。ラスコー洞窟壁画が無くても文明は発達したし、パピルスにファラオの遺言が書かれていなくてもピラミッドは建造された。文字がもたらした恩恵は、それが情報を記録できること以上に文字化された情報が人々を組織化して結集させ、さらに文字を書く行為それ自体がよりアウトプットに対しての思考プロセスを明確にした点にある。文字は手段ではなく、目的である。文明発達が文字を促進させたのだ。

もっと身近な例としては、メモを取る行為だ。意外にも、メモを取る行為はそこに記録された情報よりも、メモを取る行為によって脳へと蓄積される記憶にあるらしい。アルバイトに手書きメモ帳は必須だが、それは情報としてよりもアウトプットする際に記憶化される知識の方がメモ帳の成果物としての割合が大きいのである。

僕はGoogle Keepに読んだ本の内容を音声でメモしていく事が多いが、今僕がやっているようにキーボードで文字を打つ行為と比べると圧倒的にその知識定着量が少ない気がする。なんというか、メモ自体にクリエイティビティが無くなるのである。ありきたりの表面的情報しか音声からは生まれ得ず、自分の考えや工夫が入る余地が無くなり、結果的に本の中身を引用しただけに落ち着いてしまうのだ。僕は、手から受けるフィードバックによって新たな思考が連続的に生まれていく所に、情報としてではなく知識として手が抱えている宿命を感じる。それは脳ではなく、メモでもなく、手に宿る知性である。

アナログのトレース

アルバイトで社寺建築設計に関わっている。特段驚くことではないが、依然としてこの分野では手書きスケッチと、図面のための2D CAD程度しかデジタル化が進んでいない。auto CADのバージョンも10年以上前のもので、僕に来る依頼のほとんどが建物の3D化というのも頷ける気もする。

その中で関心したのは、デジタルで曲線を書く行為はしないことだ。日本建築には木割書という寸法比率の参考文献のような物があるのだが、それに基づいた屋根の反りは、手書きの中でしか創発できないらしい。というのは(日本文化に限らないが)、全ての曲線は最も自然な状態の中で生まれる形であり、それはフリーハンドとしての人間のドローイングからしか生まれ出るものではないのだ。僕が例えば供養堂の擬宝珠を設計する時、実際に似たような曲線をデジタルで描こうとしても、いびつで奇妙な曲線になってしまい、最終的には先生のスケッチをスキャンしてPDF化し、それをデジタルの中でトレースしたのである。僕はフリーハンドが持つ生命的な源に改めて関心したと同時に、デジタルはアナログの拡張子に他ならず、主従関係はアナログの意思に基づいているのだと気付かされた。

instagramの価値

僕もinstagramをやっているように、世界中でたくさんの人々がマーク・ザッカーバーグの恩恵を受けている。instagramのためにアナログ世界を旅して新たな発見をシェアする人もいるくらいに、instagramはアナログ世界をデジタルに伝達するための変換ツールとして存在している。instagramやtwitterが世界の場所、有名なタピオカ屋、古着屋、スタバ、映えそうな写真スポットを情報化して安易にバラまけばバラまく程にアナログ世界は活性化し、旅行客数は最多を更新し続けている。つまり、一見デジタルの世界だけで完結しているように見えるプラットフォームでさえも、アナログの意思に基づかれたものであり、デジタルの恩恵はアナログへ、デジタルの価値はアナログへ、そしてデジタルの目的も最終的にはアナログへ移行していくのである。それはつまり、私たち人間がアナログな存在であることの裏返しである。

産業革命は人間の「労働」を外部化し、デジタル革命は人間の「情報」を外部化する。昔の偉人が予想したように情報こそが現代の最大価値であり、情報が人々の感情を左右していく時代である。三浦春馬が自殺したことには僕も驚いたし、検査数を提示しないでコロナ感染者数の数字だけに一喜一憂するメディアを傍観する人もいるし、外国人が日本をどう思うかなどと言ったどうでも良い価値観に生きている日本人もいるが、彼らの根底にあるのは常に情報である。だがその情報はアナログ世界の投映に過ぎないし、その情報から何を感じ取ろうと、それを感じる主体はアナログに生きる人間である。デジタルがアナログを席巻するなどというのは情報の海におぼれた錯覚であり、水中からだと水面に光が反射して空を見渡せないのと同様に、私達もその主従関係を見失っているのである。

現代社会の人間像

コルビジェは、人がまっすぐ歩くのは目標があり、自分がどこに向かおうとしているのかを知っているからだと言った。大都市の見取り図を見るとほとんどすべての都市に曲がりくねった道があるが、それらは近代都市にはふさわしくない。直線的な区画こそが自動車社会に必要とされる都市であり、直線的な人間こそ、近代社会に必要とされる人間でもある。…とざっくりまとめるこうなる。

これを聞く限り、いかにも300万人都市の設計者のように感じられるが、実際にいま、現代社会に理想とされる人間はアナログである。ただ直線的に人生計画を組んで成功し、郊外に大きな一戸建てを持ち、老後は地方で農業を営んで、孫を出迎える。そんな人間はもはや生産されない。失敗を繰り返し、時にはヤンキーから転向して起業し、色々な経験と知識を蓄えながら成長していくのがこれから求められる人材である。…人材というより、人間だ。どこか人材というのは人を数字的に捉えていて、それは産業革命以後の建築が収容数にこだわって失敗した過去に類似しているから、好ましい単語ではない。人間は皆個性があり、それぞれの人生をウネウネとまわり道しながら成長していくのである。直線的な人間はむしろ前時代的なのかもしれない。

ネオ・デジタルへ

言葉は、情報とイメージの合成だ。言い換えればそれは、デジタルとしての情報とアナログとしてのイメージ性を足し合わせた存在なのである。その考えのもとで翻訳という行為を考えると、意外にも翻訳は難しいことが理解できる。夏目漱石が"I LOVE YOU"を「月が綺麗ですね」と翻訳したことは有名だが、Googleが努力しているように情報としてその言葉を翻訳することなら可能だが、夏目漱石のようにイメージ(遠回しだが)の翻訳は依然として人間にしかできない。というより、言葉に含みこまれたイメージとしての意味はその言語内でしか存在し得ないと考えると翻訳行為そのものが無意味になる。シュレディンガーの猫は、観測者が自分の世界より外側のメタ的視点は獲得できないことを教えてくれるが、翻訳行為も同様に日本語という主体の外側に立つことはできないのである。

デジタル時計よりもアナログ時計の方が情報量が多いのは、その時計の針が向かう方向性の存在による。時計の針が情報として以上に、イメージとして、1日の時間を相対的に表してくれるからだ。だが、それは宿命とまではならない。デジタルがアナログ的な特徴を備えることは設計次第でいくらでも可能になるからだ。iphoneのUIデザインがそこを目指している事は分かりやすいが、デジタル量の中にグラデーションを付けて顕在化させることは、「モノによって」はできる。例えば言葉はそれ自体が歴史的に最も長い人間存在の成果物であるためそれを現代社会のみで転換することは非常に難しいが、SNS世界や社寺建築設計においては可能だと思う。iphoneを触る体験がアナログとデジタルの境目をデジタル側のグラデーションによって連続性を保っているのと同様に、私達の知るデジタル世界はそのデザイン次第でアナログ世界へと近づく事ができるのだ。ネオ・デジタルの世界。そこは私達の拡張子としてデジタルが当たり前に存在することを認め、デジタルとアナログの二分化ではない柔和な社会性を備えていることだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?