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因果はどこまで (小説)

「おじいちゃん、手術するんだって」
 琴子の言葉に、ふうんと興味なさげに健史は呟くように言った。珈琲カップを置くことも、視線を合わせることもしない。そのまま口に運ぶと喉を鳴らしてカフェオレを飲みこむ。ようやく置かれたカップの中で、ハート模様が歪んでいる。右手で柄を掴み、左右に動かしながら弄ぶ指先を琴子はじっと見つめた。健史の態度に、薄情だとは思わない。
 琴子の祖父は以前から右脚を痛めており、歩くのが億劫になっていた。祖父と住んでいる地域が近い彼女の話を、健史は何度も聞いている。2年程の付き合いではあるが、口調からも緊急性がないことが伺える。
「なんでそんな怒ってんの」
「え、なんでわかるの」
 なんとなく。健史は全身で態度に表す人だと、琴子は思う。手術の一言には驚きもみせなかったのに、今度は手を止めて視線を合わせてきた。切れ長の瞳とぶつかる。人と目線を合わせるのが嫌いな彼女は、時々責められている気持ちになる。喧嘩ひとつしたことはないが、きっと勝てないんだろうと思う。喧嘩に勝ち負けがあるとも思っていないけれど。
 琴子は右手でスプーンを持ち、カップの中身をぐるぐる回した。紅茶が無意味にかき混ぜられる。手を止めず、再度健史に向き合う。
「なんで、人は生殖活動をするんだろ」
 人は考える葦であると言ったのは、誰だったっけ。口に出さず、思考する。
「本能じゃないの?自己防衛というか…」
「動物はそうかもしれないけど、人ってなんか違う気がして。遺伝子を残すとか、生物学的な意味合いだけじゃなくて打算的なこともあるじゃない?」
 琴子の祖父が入院し、2人暮らしをしていた祖母は叔母の元に預けられた。祖母はそれを当たり前に受け取り、金銭を要求してこない娘の寛大さを感じず受け止めた。叔母には子供がいるが、みな自立している。祖母のすべての世話は、叔母に託された。叔母は危篤なほど優しくて、親孝行者であった。
 祖母には友人とでかける趣味があり、少ない年金のほとんどがそれに充てられていた。食費も、家賃も光熱費も水道代も叔母の負担だ。楽しそうに自分にだけお金を使う祖母に、呆れて陰で文句を言う叔父に彼女は気づいていない。自分は次女で親の面倒はみていないのに、娘に面倒をみてもらうのは当然だと感じている。
「なんか、腹が立つけど仕方ないのかな。でさ、友達も結婚して子供がいる人増えてるけど、どんな気持ちで産んでるのか気になっちゃって」
「打算的な気持ちはないのか、ってこと?」
「そう」
 明るい情報が少ない日本で、なんで産めるんだろう。琴子は視線を外して問う。未来は明るくないかもしれない。産業は衰退してしまうかもしれない。飽食の時代を羨む時がくるかもしれない。不確定な将来を思うと、もし自分の子供が不幸になってしまったらと不安になる。結婚すらしていないのに余計なことを考えてしまう。
 自分の将来が不安だから、支えて欲しいと思うけれど、それを子供に託してしまうのはどうかと感じてしまうのだ。
「考えてないから、産むんじゃない?」
 健史は続ける。
「不安定な未来とか、自分の保険とか、そういのじゃなくてさ。相手とか自分とかの遺伝子を残したくて、証が欲しくて産むんじゃないの」
「でもそれって、」
 理不尽な気がする。身勝手で無責任で、動物的で、とても理性的じゃない。馬鹿っぽい。言葉にはできず、息を吐く。
「それこそ、個人の責任でしょ。産んだ責任も産まれた責任も。わかんねーけど。でも生きてたほうが楽しいし、だったら産まれたほうが楽しいんじゃね」
 何にでも怒るのやめたら。
 呆れるでもなく淡々と彼は言う。理由づけできない事象はたくさんある。けど、意味を知りたいと思ってしまう。飲むたびに変化し続けるハート模様を見つめながら、琴子はしばらくスプーンを回し続けた。

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