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なきむし (小説)

 水槽のなかで、いるかが同じ動きをしている。腹ばいに空気を吐きながら遠ざかり回転し、泡沫を消しながらこちらに向かってくる。優雅な動きに感嘆する。海を自在に泳げて、重力から逃げられる。どんな心地なんだろう。
「いいなあ」
「いいことなんてないだろうよ」
 呟くと食い気味に被せられた否定的な言葉に、頭上を振り返る。同じく水槽を眺めている彼の瞳の奥が水色に見えた。
 常同行動というらしい。ずっと同じ行動をしている動物達はストレスを感じている。動物園や水族館の生き物は多く、この行動をしている。環境変化の少ない水槽は、いるかたちにとって毒だ。独房と同じ、らしい。折に閉じこめられた自分が、毎日同じ環境に晒されたことを想像してぞっとした。いるかは、心地よくはないのだろう。狭い空間に閉じこめられて、刺激のない日常は苦痛なのだろうか。

 「加瀬さん、またあなた同じミスをしていますよ。以前にもお伝えしたはずですけれど」
 上司の声が頭に響く。30代半ばを過ぎた、化粧のりの悪い顔が歪んでいる。普段から怒っていることが多いのか、彼女の額には皺が濃く刻まれている。塗り固められた顔面からファンデーションが落ちないか冷や冷やする。分け隔てなく接したいと言う彼女だが、わざと敬語を使うことで皮肉さが際立っているだけのように感じてしまう。
 彼女の言う通りに修正しようと、謝ろうと変わらない。さらに違う要求をしてくる。必ず中央にある彼女のデスクに呼びだして、朝1番に叱責する。権力を顕にしたいのか悦に入って言いたいことだけ伝えるのは十八番で、違うのは毎日対象者が変わることだった。
 「意地悪で言っているんじゃないんです。あなたに期待しているんですよ」
 最後に言う。叱りたくてしかっていないのだと。年長者として、若者に育ってほしいから仕方なく伝えているのだと。
 息がつまる。くるしい。毎日同じことの繰り返しだった。

「それ、やめたほうがいいと思うよ」
 上司に注意を受けた後、わたしは毎回彼を呼びだして酒を浴びるように飲む。酒が好きなわけじゃないが、飲むと安心する。安心するのは前後不覚になったわたしを介抱してくれる彼がいるからだ。帰宅後、わあわあ喚き胸の中で泣くわたしに彼が言った。子供みたいに泣くのは、そろそろやめにしたらと。何も言えなくなって、でも涙は止まらなくて、噛みしめた唇から嗚咽が漏れる。
 貶すように呆れるように、彼はため息を吐く。申し訳程度に背中を撫でられる。
 じゃあ、どうしたらいいの。
 わたしは水槽のなかでよかった。いつも同じことの繰り返しをしていたい。変化のほうがストレスなのだ。違う環境に置かないで欲しい。毎日同じことを繰り返して、彼に慰めてもらって、ずっとそのまま。
 「いいなあ」
 わたしもいるかになりたい。

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