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左手の戯れを赦す

■毎日“これについて書く”という連載テーマが決まっていれば、毎度毎度「今日は何を書こうか」と考えることもないのかなと思いつつ、では実際のところ今日は何を書こうかと考えているのかというと別にそういうわけでもないなと思う。どちらかといえば、どうするか考えるのをやめた時何が残るかを見ているという方が近い気がする。そもそもこの手の話題を挙げるのは本当に何回目なんだよという感じだが、毎回毎回書かれることは違うのだよね。表現の仕方が違ったり、少しずつ理解がズレて拡がっていっているはずだ。

 なんども同じ話を書いていると、だんだん「毎回同じ話の流れだな」と感じるようになる。なぜ毎回同じ話の流れになるのかというと、例えば接続詞の選び方に癖があって、実は逆接でも順接でも次の話の展開は作れるという時に、無意識に逆接ばかり選んでしまっていて、毎回話の流れが同じになってしまうとか、そういった原因で、何度トライしても同じパターンから抜け出せないということがある。逆に言えば、同じパターンから抜け出せないからこそ、何度も何度も同じ話の流れを作ってしまうのだ。自分の話の中に、隠されている分岐点を探して、今までにはなかった流れを生み出したいという欲求があるからこそ、何度も何度も同じ話をして、飽きて、飽きたところを破壊するという、そういう流れが生じる。毎日書くことが自分を自由にすると僕は考えるのにはそういう理由がある。記録を残すことで、自分の癖が可視化されるのだ。そうやって無意識に、新しいパターンを探していったりすることで、だんだんと表現の幅は広がってくる。その積み重ねだと思う。

 最近仕事をしていて思うのが、なんでも真剣に取り組めば楽しめるということだ。他の人は知らないが少なくとも僕はそうで、多分他の人もきっとそうなんじゃないかなと思う。没頭していれば時間の進みはスムーズで、充実した気分を味わえる。そんな風にしている人は光を放っている。僕はより強い光を放ちたいと思うし、それは別に自分がどこにいるかということはあまり関係がないというか、今自分はいるべき場所にいるのだと考えるのがいいと思うようになった。もし、いるべき場所が変わる時は、その時はそうなるのだから、とにかく自分が今いるところ、今ここを生き切ることが大切だなと思う。

 無い物ねだりは人の常なので、だからこそ僕はあろうが、なかろうが、関係ないですよというスタンスでやっていきたいと思う。そうすればいつの間にか、開かれた自分の世界に入っていけるだろうと感じている。

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