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知った顔

■今日は友人の結婚式があった。久々に顔を見る人も多かったが、やはり学生時代の同期がそれなりの人数集まると醸し出される雰囲気も当時のものとなり、何やらとても懐かしい気分だった。いい式でした。


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「知った顔」

 こんな時 僕に何が言えるだろうか
 例えば砂 例えば海 雪
 過ぎた時間の轍の上を 
 走り抜き去る 知った顔
 僕は時計を着けていない
 
 僕は時計を着けていない

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 今日はなかなか言葉が出てこない。振り絞って書いた詩を置いておきたい。
本当は手で書いたらいい。絵で描くのもいいな。旋律をつけてもいい。ビートをつけたっていいはずだ。色々とやりようはある。色々な人生があるのと同じように。

 人間の解像度を少しだけ上げてみると、単純に上手くいっているとかいっていないとかでは割り切れないグラデーションがあるのを見ると思う。その狭間で、僕は自分を割り切れる存在にせずに、背景をゆるゆると移動していく影のような存在として世の中を見ていきたいと思う。自分の抱えている割り切れなさの幅を広げてみれば、人は容易に越境することができる。初めは少し苦しいが、そのうち呼吸も馴染んでくる。何も心配はいらない。簡単な答えに飛びつきたくなるのが人の性だが、真実はいつも物事の陰に隠れている。もしそれを見たいと思うならば、自分自身も影になる必要がある。そうすることによってのみ、僕の輪郭は逆に定まるのだ。歪な笑顔を浮かべる必要も、腕を組み自分を守る必要もない。自分の自由を広げるとは他人を理解しようとすることだからだ。

 最近は一日一日が以前よりも長く感じる。いよいよ子育てを始めるための準備に取り掛かっており、恐らくは僕自身が子供に還る用意をしているからだ。子供を理解するには、僕自身が子供であれなくてはならない。もちろん同時に大人でもある必要があるのだが。つまり、グラデーションの中で生きるということだ。是や否では割り切れない流れの中を泳いでいくということだ。僕はこの歳になってようやく、人間として生きるということの意味を理解しつつあると感じている。僕は大人だ。しかし子供であれなくてはならない。だから、それは苦しい。苦しいことには価値がある。その苦しさに耐えた先には報いが待っていると思える。そして何より、その苦しさが体に馴染んでくるのは、とても気持ちがいいのだ。僕はつまり、そういう大人になりつつある。そういうことなのだと思う。僕はそう思うのです。

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