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動詞を一つだけあげる

■とかいって、毒抜きに一本書いたら意外と適当にカタカタ書けるんじゃないのか?という気がしてきた。完全に気のせいかもしれないが。とにかく、何について書くみたいなことが本当に僕は苦手だ。テーマを設定するというか、段取りができてないと思う。文章を書く上での段取りって何?全体の構成なんか考えながら書いても何も面白くないだろう。卒業論文書いた時は、そりゃもちろん最終的には構成などあれこれ変えながら書いたが、あれはいくつもの小論文の組み合わせのようなもので構成など考えるのは終盤のタイミングであって、いざ書こうという時は勢いに任せてダーっと書くしかないと思うのだが僕の勘違いなのだろうか。結構気合が大事だと思う。何事も。しかしとりあえずこれで今日わかったのは、本ちゃんに取り掛かる前に、仕事をした日は毒抜きに一本書いておかないといけないということだ。ウォーミングダウンだ。クーリング・オフだ。だってもう見た通り僕の指は止まらなくなっている。勝手に文章を書き続けている。内容なんかどうでもいい。とにかく動くままに動かすことだ。それでシュートを打ちまくればいつかはゴールに入る。そういうことだ。

 そうはいっても毎回毎回何を書こう何を書こうと悩んでいる時もあれば全く悩まずに済む時もあるわけでほらだんだん日本語の文章としても怪しくなってきてるがつまりこれはゲット・ハイしている可能性があります。なんだこの文章。お察しの方もいらっしゃるかと思いますが僕はこの文章を書く前にもっとガチガチの硬文(硬い文章のこと)を2000文字くらい書いているのであります。2000文字というと原稿用紙5枚くらいで、指が動いてる時には実際大した量ではないのですが、これがもう全然指が動いてないという時には結構大変なんです。不思議と、指の動きが硬い時には出てくる文章とか言葉にも硬い言葉が多いんだよね。大和言葉というよりは熟語だったり。訓読みではなく、音読みだったり。そういうところが何かこう、違いとして現れてきます。これは文章の面白いところで、スポーツにもプレイが柔らかいとか硬いとかあるように、文章にもコンディションによって硬いとか柔らかいがあるんですね。今は結構柔らかいです。だいぶいい具合だと思う。少し柔らかすぎるかな?くらいですが、でもこのくらい柔くなってくれた方が言葉がスムーズに流れてくるので、僕の特打レベルもマックスに達しています。もうここまでで5分くらいじゃないか。いつもは書き始めた時間をメモっているのですが今回は忘れました。でも多分5分くらいだと思う。10分は経っていないはず。で、1000文字かけてるので、このペースで一時間書き続けられたら12000文字か。それで原稿用紙30枚か。すごいな。大変なペースだ。実際1時間これを書き続けるというのは結構大変な作業だと思う。まずそもそも指が疲れる。突然やろうとしてできるものではないでしょう。毎日コツコツ続けること。スピードが大事だね。テンポ感。そういう意味では、仕事終わった後に、毒抜きで一発書いておくというのはもしかしたらいい発想かもしれない。まぁ、毒抜きの文章にもそれはそれで味はあるのかもしれないけれど、基本的には抜かれた毒がそこには残っていると思っていいはず。今書いているこれは内容のない真水に近い文章ですね。だから、スラスラ出てくるし、ゴクゴク読めるはず。もちろん真水も無限に飲めるわけではないので、あまりやりすぎればお腹いっぱいということはあるかもしれません。でも、毒入りの文章よりは読みやすいでしょうきっと。考えないで出てくる文章というのが一番読みやすいです。考えながら出てくるものはだいたいいびつで読みづらい。一生懸命書いてるんだけどねぇ。肩に力が入っちゃってるんだろうねぇ。

 というか毎回不思議なんだけど、毎回毎回書くことねーといっている割に毎回書いてることは違うんだよね。それがどうしてなのかはよくわからないけれど、それってきっと多分僕が生きているということに他ならないのでしょう。同じものを書こうとしたってかけっこないんですよ。そう、今日仕事中に思ったんだけど、仕事には2種類あって、「同じものを作る」仕事と、「同じものを作らない」仕事があるなと。でもこれって結局見方次第で、全く同じものなんてのはどうしたって作れっこないわけで、それでも同じものを作っていることにして、これは同じものですーといって出荷しているなら、つまり同じものなんてのはこっちがちゃんとありのままを受け入れられるなら、どうせ存在しっこないんだから、こうして何かものを作ったろうということをやっている人間はあんまり深いことを考えないでどんどん手を動かせばいいんじゃないかと。日本語でオーケー。どうせ同じものなんか出来上がらないんだから。これとこれは同じですと定義するのは人間の自我の仕事なのであって、無意識はそんなこと御構い無しにどんどん変容していっているだけ。流れているだけなんだから、あとは僕らは自我を停止すればいいだけ。仕事上がりの文章が硬くてどうしようもないのは、その自我の停止がうまくいってないからだな。うん。多分そうだと思う。そんな気がする。今この文章は自我で書いてないから、よく流れていて、そういう時の方が新しい知見もある。新しい言葉が流れてくるからだ。流れを許すこと。新しいことを許すこと、違うことを許すこと。無意識を許すこと。そうやってどんどんと流れを良くしていけばだんだん運気もよくなっていくのです。というわけで今日はここまで。素晴らしい。

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