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I'm sensing you

■書いている場合ではないのではないか、と思ってしまう時がある。「音楽なんて金にならないことやってないで就職しろ」というのと同じ話である。あぁ、確かに一理ある、と思ってしまう僕は心が弱いのか。しかしやはりなんでもそうだが、続けることが一番難しい。どんな形であれ続けていくことが一番すごい。僕は何かを続けたい。表現し続けたい。だから今こうして書いている。

 昨日は久々に曲を一曲書いた。ごく簡単なものだが。絵も描いている。昨日は難しくて、何度も消していたら紙がよれてしまった。しかし一応、書き切りはした。これが大事なのだ。難しい、できない、無意味だ、お前は死んだほうがいい、生まれてこないほうが良かった、そういった声が一気にブワッと頭の中を駆け巡るものだ。できないという感覚が体を支配するとはそういうことなのだが、しかしこれは実は、無視できる。とりあえずその時その場でできないことをやろうとしても仕方がないと一旦受け入れて、じゃあその時その場でできることをまずは形にしたら、そこを足場にして次はこうしていこうという形をとることができる。自然、手がやれることを探し始めると、頭の中のさっきの声たちはどこかへ消え失せ、とりあえずはまぁこんなもんかな、という程度のものは仕上げることができるのだ。それもこれも、今日の締め切りに間に合わせるという自分で自分に課した義務に応えるためだ。だからこの文章も同じだ。書いている場合じゃない、こんなことよりももっと金になることをやるべきだ。確かにそうかもしれない、確かにその通りかもしれないが、しかしそれは、一日1000文字以上のこの文章を書くという自分との約束を反故にしていい理由にはなり得ないのだ。

 僕は今まで、何度も継続に失敗してきた。それは何かと理由をつけて、毎日の継続を怠ったからだ。継続とは毎日やるということなのだ。継続こそが無から有を生み出す唯一の方法とはそういう意味だ。もし、休憩したいのであれば、普段よりも質を落として、量だけは確保して費やす時間を短縮するという形で対応しなくてはならない。継続とはそういう意味だ。その気になればやれるのだ。本当はなんでも。だから、その気になればやれるということを知るためにも、毎日やるべきなのだ。

 生活には様々な条件がある。生きていればいろいろある。それは当然そうで、時間的余裕がない時、酒を飲む予定がある時、その他諸々。最悪、時間がないときはこんなものでもいい。例えば、

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおオオオオオおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!YES!!!」

とか。本当にこんなものでもいいと思うのだ。僕は。何もやらないよりはいい。それに今、僕は「お」のキーを押し続けていたのだが、すごく精神力を試された感じがした。実際これはやったことのある人でないとわからないと思う。これを実際にできるやつが最終的に勝つ。そう思えるのだ。だからこそ僕は、今度こそ石にかじりついてでも継続しようと思っている。別に投稿時間などいつでもいい。とにかく、朝起きてから寝るまでの間に1000文字以上の文章を書き、そのポストに添付する絵を描き、写真を撮る。そして一曲書く。

 段々ハードルが上がってきた。最低ラインはとりあえず、1000文字以上の文字を書くことだ。これができていれば、継続もできていることとする。でもできたら絵も描きたい。これは楽しいから。何も浮かばない時もあるし、技術が足りなくてかけない時もある。でもそんな中でも、描けないなりに描く技術というのは磨ける。それって真実じゃん?なんか俺今いいこと言ったな。曲も同じ。毎日書いたら1年で365曲だぜ。すげぇな。録音のクオリティは求めない。これやりだすと面倒なことになるから。あとでかい音も出せないし。自分が今までサボってきた分、こうして書く文章も1000文字じゃ少なくて一杯書けば描くほどいいような気がしてきてしまうのは多分僕の神経症的な部分とも関係があると思う。でも俺はX JAPANの30分ある曲をちゃんと聴いたことがない。短ければいいというわけでも、長ければいいというわけでもない。しかしこの文章は作品としての強度を求めながら書いているわけじゃないからなんとも言えない。満足するまで書くのか、ちょっと物足りないくらいがちょうどいいのか、それは人によって違うと思う。だいたい正解などないのだ。変なこだわりを設けだすから継続が妨げられる。

 僕の中での継続の定義は「毎日どんなことがあろうと、1000文字以上の文章を書く」、ただこれだけだ。それ以外のことは全てそこから生まれてくる別の事柄に属している。さっきの「うおお」のアレが文章なのかどうかについては議論の余地がある。しかしこの際、あれを文章であると言い切ってしまえるその心意気を大事にしたいと思う。俺はそういう、自由な気高さが好きだ。愛すべき馬鹿でありたいと思う。自分で言うのか?このセリフは。まぁ、なんでもいい。こまけぇこたぁいいんだよと神は細部に宿るを両立していきたいと思う。

***
 
 もう少し書いていきたい。ちなみに今は外出して用事を済ませてご飯を食べて帰ってきてコナンのアニメを見ながらアイスを食べたところ。それで、本当はさっき書いたやつにつける絵を描けばいいのだけど、なんだかもう少し言葉を書きたくてこれを書いている。

 なぜ僕がここまで言葉を書くことにこだわるのかというと、自分の体の中に潜んでいる他者意識と話をつけて、自分の体とうまくやっていくための調整になるように感じているからだ。例えば、何を書くべきかわからない時というのは実は、自分の中でありとあらゆる意見、他人の視線が絡まり合ってしまっていて、自分というものがよく見えづらくなっている時なのである。例えるなら、ほつれた糸を一本一本解いて、自分の糸を見つけだす営みという感じだろうか。そうやって自分自身の輪郭というものを確かめていっているような感覚が、僕が言葉を書いているときにはある。創造的な営みの全てはその延長線上にあると思う。なんらかの仕方で、自分自身を確かめるということだ。

 実際、しばらく書いていると、だんだんと自分がツーっとまっすぐになっていくのを感じる。これは不思議な感覚だ。最初、未だ自分の糸がこの、ほつれた塊のどこにその端緒があるのかを見つけられていない時は、真っ白なスクリーンの前に座っても、本当に、あぁ、なんというかこう、僕のことをそんな綺麗な目で見つめないでくれよ…などというセリフでも聞こえてきそうな、そんななんともいえない居心地の悪さを覚えるのだが、その、真っ白な視線の重みに抗って、自分をまっすぐに立ち上げようとしていると、私という糸の端緒が、言葉の書き出しの端緒となって目の前におもむろに垂れてくるのだ。そうしたらその言葉の端緒を掬い上げて、少しずつ、自分の中から引っ張り出すように言葉を紡いでいけばいい。気づいたときには、あれほど絡まってグチャグチャの塊のようだった私という気分が、それはスッキリとしたものに立ち返っているのだ。

 今久々に、この1000文字チャレンジで書いてきた文章をザーッと読み返してきた。僕はここでことあるごとに「文章を書くことそのもの」についての文章を書いており、しかもその内容は回を重ねるごとに深くなってきていると感じた。深く、かつ明瞭になってきている。明晰判明、というやつである。この“明晰判明”という概念は、今では少し古臭いものとなっている。今のトレンドはこれ、“センス”である。見よ!この明晰でも判明でもない概念を。以前にも少しだけ書いたが、わかる、確かに僕もセンスが大事だと思うし例えどれだけ重要な事柄だったとしてもセンスがなければそれを他人に印象付けることはほぼ不可能だとさえ思うが、しかし一方でこのセンスという言葉は本当に使われ方を間違えると本当にひどいことになるので、僕はあまり使わないようにしている。そもそもセンスがいいとか悪いとか、何様のつもりやねんという感じなんだよな。お前には見えてない文脈があるんだよっていう、ただそれだけのことだと思ってしまうんですよ。私は。これ結構怨念のこもってる言葉だと思う、個人的に。結構このセンスというものは例えば人によってはハラスメント気質の人に対してこの人センスある〜みたいな感じに人間、特に自分に自信のない人はなりがちなので気をつけてください。これは本当に気をつけて。

 話が逸れましたが、これから一番クールでホットな概念はこれ、明晰判明です。もう間違いない。明晰判明が一番良い。センスとかいったよくわからないことはよくわからない性を担保すべく闇の部分を保存し続けるんですよ。これね、闇の部分ってのは何にでも、もちろん明晰判明にすらあるんですけど、闇というのはね、闇というのは光の前に姿を消すからこそ闇なんですよ。闇を闇として人前に出すな。まぁ、これは今センス云々と言っている人たちには直接関係のない批判なんですけど。てかそもそも本も読んでないからなんともだしきっと面白いんだろうしそのうち目を通すだろうと思う。でも闇というのは、全てが暗転するブラックボックスのようなものなので、これを潜っているか潜っていないかでは世界の映り方が180度変わってしまうような、そういう類のもので、それがセンスという言葉で表現されているのか?であればそれはもうセンスではないですね。明晰判明です。まぁ冗談。きっと生成変化を流れの中でまなざすとかそんなところだろう。知らんけど。

 今アマゾンのレビュー見てきたけど結構評価がバラついているな。まぁそれくらい、センスというものは難しい。いや実は難しくなくて単に物事を複雑に考え過ぎない能力、つまり距離感の能力とかそんな程度のものだと思ってるんだけど、実際に本にするくらいの厚みで言語化しようと思ったらかなり難しいだろうなという気がする。イチローも一番大事なのは距離感って言ってたからね。まぁ、これもセンスですな。そういう意味では僕もこうして毎日書くことでセンスを磨いているのかもしれない。明晰判明にそうでありたい。

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