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γνῶθι σεαυτόν

■ここ数日、文章を書くのが難しくなってきているのを感じる。この現象は理解できる。何をしていてもこういう時が絶対にある。そう、成長の時が来たのだ。

 ここで道が二つあるように思われる。一度やめるか、食らいついて続けるかだ。原則としてはやめてはいけない。いけないというよりもやめるべき特別な理由がない。ただやり方を考えなくてはならない時はある。体に痛みが走っている時だ。無理に続ければ体を壊す。だからと言って完全にやめてしまえばそこまで。強さを手に入れるチャンスを前にみすみす諦めてしまったことになる。つまりこれは試練なのだ。外的な影響力によって自分の中で思い込みとなっていた何かが体の動きに無理を生じさせている。それが痛みとなって私に語りかけてくる。痛みが教えてくれている。この時、痛みそのものを取り去ろうとするとまた別の場所が痛み出すことにつながる。そうではなく、発想としては、痛みを全身に馴染ませるという方向で考えていく。痛むというのはつまり感じているということだ。全身で感じなくてはならない事柄が一箇所に集中している時に痛みを感じる。この痛みを全身で分かち合う。そうすることで全身の強度が増すのだ。どこかがサボっているから、どこかに負担が集中する。痛みを切り離そうとするのではなく、痛みを全身にいなしていく。するとある時、自分の中で変えられないと思われていた事柄がいつしかそうではなくなっていたという変化に気づく。内世界、自分自身との距離感を正すと、外世界との距離感も適切なものとなるのだ。日本刀を叩いて鍛えるように、距離感の詰まっている部分を叩いて全身に馴染ませていく。そうすることで体の強度が高まっていく。もちろんそのためには体の温度を上げておく必要がある。そのための日々の修練だ。つまりこの場合で言えば、やはり難しくなっているからといって文章を書くのをやめてはならないのだ。

 難しさの中で書かれた文章は不思議とどこか、硬い。これがつまり痛みが生じている部分と言える、かもしれない。少しずつこれをほぐして全体になじませていく必要がある。少しずつ、時にはマッサージするように、時には刀を叩いて全体を形作っていくように。

 僕はこれまでずっと、人や世界を直す、正すということに興味があったと思う。音楽をやっていたのも本当はそれが理由だと思う。しかし実際、人や世界は、本当に直したり正したりすべき対象なのか?これは考えなくてはならない。直したり、正したりされるべきなのは自分だったのではないのか。もしくは、そもそも正したり直したりされるべきものなどどこにもなかったのではないのか。もしくは、直したり正したりしてやろうという態度で接することによって直したり正したりできるものなど存在しないのではないか。

 ただありのままの自分でそこにいること。そうすることで、私と相対した人間も同じくただありのままの自分でそこにあらざるを得なくなるような状況に、私は彼を追い込める。私が純度の高い私でいれば、世界も純度の高い世界であらざるを得なくなる。何故ならば、私の純度は私によって、厳密に言えば私自身によって、保たれているから。というような方向で物事を考えていった方がシンプルでわかりやすいのではないか。ケアとか癒しとか、トピックとしては重要だと思うしもちろん重要なのだが、そこに必要なのは本当は存在の純度や生命としての強度を十分に発揮するといった方向性なのではないか。変な話、今の日本に欠けているのはこういった強さなのではないかとすら思う。先進国としても三流以下だし、プライドの高さや傲慢さが邪魔して発展途上の生命力すら燃え上がらない。だから景気も良くならない。テンションが上がらないので抵抗力が落ちる。自然、生命力も弱くなる。まぁ、こんなような流れだろうと思う。しかしこんなことは、本当にその気になればいつでも吹っ飛ばせるのだ。存在の順序と認識の順序は逆なので、逆に言えば各々が強くなれば、日本は回復するのだ。もちろんこの時の「強くなる」というのはけして筋トレをするとかそんなことではない。もちろん筋トレをすることによって強くなるという人もいるだろうが、僕がここでいうのは本当の意味での多様性のことだ。お前はお前のすべきことをしろということだ。なるようにあれ、ということだ。その流れを止めてはいけないのだ。邪魔な意識、自分の中から自分の足を引っ張ってくるその自意識を一つずつちまちまと潰していけばいい。そうすればあなたの世界は明るくなる。明るくなったあなたは世界を照らすだろう。そうやってみんなが少しずつ世界を明るくすればいいと僕は思う。

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