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【投稿少年】手のひらを裏返して頬にあてる「オカマしぐさ」


画像1〈朝日新聞 東京版 「声」欄 2017年01月24日掲載〉

中学2年、14歳のときでした。
文字数の制限で加減しましたが、本当に言われたのは「おまえコレだけになるよ、気持ち悪い。あういう人種には、人間的魅力がないからな」でした。
ショックを受けると同時に「人間的魅力ってなに?」という疑問を持ったので、一文字漏らさず覚えています。

当時は、今でいう「オネェキャラの人」がなぜかテレビ業界に激増していた第一期(?)で、イケメンが登場すれば「キャーー抱いてーーー♬♬」と身悶えする、それで「キショいわ!」と言えば「なんでそんなこというのォーー♥♥」と返す、そういう表層的な賑やかしの役割を求められてました。(今でもそういう面はありますが、当時はもっとひどかった。そのキャラ以外を求められることがほとんどなかった)

「おまえコレだけになるよ、気持ち悪い。あういう人種には、人間的魅力がないからな」

担任の関沢先生(仮名)も、たぶんそういった軽薄で表層的なテレビでのキャラクターを見て、「人間的魅力がない」と判断したのだと思います。「おれは神道で日本人、だから家ではクリスマスもしない」と明言していた(お子さんかわいそう…)ところなどからみると、やや保守的な方ではあったようには思います。

──といいますと、ぼくとその担任が不仲だったかのように思われるかもしれませんが、実はわりと仲良しでした。

おとなになって少しばかり教育産業に関わるようになって知りましたが、学校や塾のクラス分けって、アミダやサイコロで決めてるんじゃないんですよね。
恣意的に、この子とこの子は離しておこう、この子はこの子の見守り役においておこう、ということが、わりと綿密に(というかある意味雑にも)計算されています。先生も人間ですから、得意な生徒 / 不得意な生徒 があるのは当然のこと。学年が全体としてうまくバランスを保てるような、いい意味での偏りを持つようなクラス配置がなされるのは悪いことではありません。

※でも中3のとき、校舎の遠く離れたF組の濱口先生(女性)が「小柄なのにやんちゃで生意気なスポーツ少年」というぼくの好みド真ん中の生徒を全員自分のクラスに集めやがったときの恨みはいまだ消えません💢

閑話休題。
ぼくに「手のひらを裏返して反対の頬にあてる“オカマしぐさ”」でもって「ああはなるなよ」と注意をくれた関沢先生は、学年が持ち上がるのときにもぼくを自分のクラスに入れ、ときどきイヤミなことをいいながらも、可愛がってくれていました(友達には「なんか、関沢センセって吉田に対抗心持ってるとこあるよねー」とは言われたことが何度かありました。周囲よりちょっと大人びていて、ある意味小賢しかったのでしょう)。

では当時のぼくが担任に心配されるほど「オカマ」っぽかっといえば……いわゆる「ナヨナヨ」とはしていなかったと思います(ぼくの性自認はは男性です)。が、本人としてはなんともいえません。外からの評価を思い出すと、
●中2当時としては大柄だったわりに、気が優しすぎると言われた。(通信簿)
●身振り手振り、歩き方が男っぽくない、とはたしかに何度も言われた。
●友達に男女の境界がまったくなかった。

特に三番目、「友達に男女の境界がまったくなかった」。
男友達のグループで廊下を歩いていたら、教室で女子がその日の家庭科で作ったのか、クッキーお茶会をしているのに遭遇。ぼくはなんのためらいもなしに「ぼくも食べるー!」といって、その女子の輪の中に入っていって、楽しくおしゃべりして、ティーバッグの紅茶を飲んで、クッキーを食べてから男子グループにまた合流。
このとき男子連中の一人が「なんで正太はああいうことができるん??」「女子の輪にふつうに入っていく勇気、オレないわ……」とボヤいていたと聞いて、あとで、へー、そんなにヘンなことかなーと思ったことを覚えています。「勇気」て……。そんな大層なことか? いや、そんな大層なことだったんですよね。
ぼくは早くから(たぶん10歳から)自分の性のことで悩み苦しむばかり、14歳の頃にはもう達観した冷めた目で周囲を観察していて、「この前まで『正太、女子と口聞いてたでー!!』などと囃していた小学6年生男子が、たった2年間でここまで“女のコ”を意識するようになるのかー」とその成長の速さに驚きながらも、どこかで笑ってた気がします。強がってたのかな、「かわいいなー」って思ってた。

ここでまた【閑話】に入って、ぼくが観察した小5から中3まで、完全に1年ごとに変わっていく「男子が女子を見る目、女子が男子を見る目」について書いていたらすごく長くなったわりに元の投稿文で強調した悲しみと苦しみ(これはこれでもちろんウソでも誇張でもない)から随分離れてしまったので、note初めての投稿をここまでにしてみます。

noteってこんな感じでいいんでしたっけ??


==== 【参考】以下、編集前の投稿文原文 ====

 男友達を好きになり、自分が同性愛者だと気付いたのは、まだランドセルを背負っていた小学生の頃。「ぼくは変態だ」「人に知られたら、親が悲しむ」──テレビで“オカマ”を嗤う番組を見るたび、その場では皆と一緒になって笑い、夜、枕に顔を押し付けて泣いた。
 ある日、担任教師に笑いながら言われた。掌を裏返して反対側の頰に当てる、いわゆる“オカマ”のポーズで「おまえ、コレだけにはなるなよ。気持ち悪いから」と。ふだんから人権教育に熱心な先生だった。「この人、本当は何にも分かってないんだ」と頭では冷静に考えつつ、心は泥水で満たされた。
 付き合っていた恋人がゲイであることがバレ、「人の道に戻してやる」と押しかけてきた新興宗教の教祖らと直談判したこともある。大学の構内で後ろから「エイズ!」と叫ばれたこともある。
 今の私は幸せだ。家族にも周囲にも理解され、13年来のパートナーと静かに生活を共にしている。昨今、社会的にもLGBTが理解され、結婚に近い法的整備も進みつつある。ただ私自身は、世間の全員に「認めてほしい」とまでは思っていない。祝福も賞賛も望みはしない。ただ、「慣れてほしい」。周囲に少しだけ違う面を持つ人間が生きていることに、慣れてほしい。
 夜中に声を殺して泣く子どもがいる時代は、もう終わりにしたい。

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