見出し画像

ぶらり関西みて歩記(あるき)

枚方宿

〔第1回〕宿場と水運で栄えた枚方宿を訪ねて

東海道は五十三次、すなわち街道沿いに53の宿場があったというのが一般的な認識だ。ところが実際には五十七次あって、枚方は56番目の宿場として栄えていたことは、地元の人たちには周知の事実だろう。

文禄3年(1594)に豊臣秀吉が、毛利輝元、小早川隆景、吉川広家らに命じて淀川の左岸に堤防を築くよう命じ、2年後に完成した。これが文禄堤で、大坂(当時の表記)・京橋~京都・伏見を結ぶ京街道(大坂街道)としても利用された。

枚方宿の原型は堤ができる前からあったと伝えられるが、急速に繁栄するのは慶長6年(1601)以降である。
この年、徳川家康が、京街道を東海道の延伸部であると正式に決定したからだ。

品川が起点となっていた東海道は53番目の大津宿が終点だったが、あらたに54番目の伏見、55番目の淀、56番目の枚方、57番目の守口を加えて、五十七次となった。

これを裏付ける記録として、寛政元年(1789)に土佐藩からの問い合わせに対して、幕府大目付勘定奉行が「東海道と申すは、熱田より上方は、伊勢路、近江路を通り伏見、淀、牧方、守口迄外はこれ無き」と回答した文書が残されている。

親藩や譜代大名が参勤交代の折には、枚方宿を利用した。大名行列の格式と威容は近傍の農民らがわざわざ見物に押しかけるほどで、とりわけ御三家のひとつ紀州徳川家第11代藩主徳川斉順の天保12年(1841)の参勤交代では、史料によると武士1,639人、人足2,337人、馬103頭を擁する大行列となり、家臣らは数か月も前から宿場に泊まり込んで準備したという。

枚方宿は宿場町としての賑わいを見せる一方で、東海道と並行する淀川を利用した水運の港としても栄えた。大小あわせて1,000艘以上の船が行き交い、旅客用の三十石船も1日2便運航されていた。それらの船の運航を監視する番所も枚方に設けられ、京と大坂の水上交通を支える重要拠点として大きな地位を占めたのである。

このように繁栄を極めた枚方宿にも、明治以降は時代の波が押し寄せる。近代化の象徴ともいえる鉄道の開通は、淀川の水運に大打撃を与えた。 

明治6年(1876)に東海道本線(現JR京都線)が開通し、明治43年(1910)には京阪電車が開通した。物流の主役が鉄道輸送に取って代られ、水運は急速に衰退していった。

#大阪府

#枚方市

#宿場

#枚方宿

#東海道五十三次

#江戸

#京都

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?