フリーライターはビジネス書を読まない(69)
プライドを傷つけないように帰らせるには
救急車が病院に着いたとき、柳本の意識はなかった。ストレッチャーで処置室へ運ばれていき、私は照明が落とされた待合室で待つしかなかった。
深夜の救急病院は静まり返って、物音ひとつしない。
柳本の処置が行われている間、救急車がもう1台入ってきた。看護師と救急隊員らによって、あれよあれよという間に処置室へ運ばれていく。その動きや手順には一切の無駄がなく、機械のような正確さに見えた。
柳本もああやって処置室へ運ばれたのだ。少し落ち着いたら、まわりを冷静に観察する気持ちの余裕が出てきた。
1時間ほど経って、柳原を乗せたストレッチャーが、看護師2名に付き添われて出てきた。
「付き添いの方ですか?」
最後に出てきた医師から声をかけられた。
その場で説明を受ける。周りに誰もいないから、場所を変える必要がないのだろう。
柳本は抗うつ剤を多量に飲んでいて、胃洗浄を行ったこと。意識がまだ少し朦朧としているので、一般病棟へ移して休んでもらうこと。歩けるようになったら帰宅していいとのことだった。
説明が済んだら、今度は事務職員に呼ばれた。
「歩けるようになったらすぐ帰れるように、先にお会計を済ませましょう」
救急搬送だとさぞかし高いのだろうなと思ったら、なんと2500円だった。
「救急でも割増になるかと思ってましたわ」
「そんなことありません。おんなじですわ」
柳本のバッグをまるごと持ってきたので、会計も柳本の財布から出す。事後承諾してもらうことになるが、文句はいわないだろう。
深夜ということもあって、一般病棟へ移された柳本はそのまま眠ってしまった。私も朝まで付き添っていられない。いったん帰宅して出直してくることをナースセンターに伝えて、病院をあとにする。
帰ってすぐ、事の顛末を知らせるため、柳本の旦那にメールを打つ。
朝になったら読まれるだろう。どんな返事が来るか――。
さて、寝なおそうと思っても、東の空がもうすでに明るくなったきた。ベッドで2時間ほど仮眠をとって、再び病院へ向かう。
柳本は起きていた。朝食の時間が終わったばかり。一応、残さず食べたという。
診療費を柳本の財布から出したことを説明し、旦那にはメールで知らせたことを伝えた。やはりというか当然というか、文句はいわなかった。
本人が帰りたがったので、帰ることにした。
会計で朝食代を追加で払い、タクシー乗り場へ。じつは病院から自宅まで歩いて帰れる距離なのだが、柳本が寝間着のままだし、外は寒いのでタクシーを使うことにした。
帰宅してから、柳本の口からやっと「ご迷惑をおかけして、すみませんでした」という言葉が出た。
「宮城でも、こういうことはあったの?」
柳本が精神病院に入院していたのは聞いたことがある。だが、その後はふつうに暮らしていると思っていたし、うちへ来てからも変わった様子がなかった。
ところが、宮城にいるときも、いっぺんに多量の薬を飲んで頻繁に救急搬送されていたという。薬で意識が朦朧としたままで自殺未遂があることも、このとき初めて聞いた。
さすがに荷が重い。早々に帰ってもらわないと、こっちがもたない。
柳本は話し終えると、再び眠り込んでしまった。
昼頃、柳本がデザインを請け負った会社から電話があった。
「今日が納期ですが、進捗はいかがでしょうか」という様子伺いだった。
「すみません。急な出張で、まだ手をつけていないのです」
苦しすぎる言い訳だった。そもそもなんで私が、柳本のために言い訳をせにゃならんのだ。
一瞬の沈黙があって、
「んー、そうですか。今回はキャンセルさせてもらいますわ。他の人にお願いすることにします」
「もうしわけありません」
納期までに成果物ができていないのだから、損害賠償を請求されてもおかしくないのだが、これだけで済んだ。そして心のどこかで「ひとまず、ややこしい話がひとつ終わった」という安堵感があった。
メールをチェックしたら、柳本の旦那から返信が入っていた。
私への迷惑を詫びる言葉があって、
「聡美が納得する口実を設けて、なるべく早く迎えに行きます。仕事の都合をつけますから、もうしばらくすみません」とあった。
たしかに、現状だと意地を張って「帰らない」というだろう。プライドを傷つけない口実が必要なのだ。
柳本がうちへ来て、まもなく1カ月になろうとしていた。明日から師走だ。
(つづく)
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