見出し画像

ぶらり関西みて歩記(あるき) 守口宿

〔第2回〕
世界一の古墳だけじゃない。
仁徳天皇が残した日本最古の堤防「茨田堤」

京阪本線「大和田駅」から北東へ2分ほど歩いたところに堤根神社がある。周辺は住宅街だが、神社の裏手に回ると住宅街には不似合いな盛り上がった地形になっている。金網で守られているその場所は、仁徳天皇が治めていた時代に築かれた「茨田堤(まんだのつつみ)」の痕跡で、現存する日本最古の堤防だ。

わずかにこの一角だけ堤の痕跡が残る

堤根神社は堤の鎮守として、彦八井命(日子八井命・ひこやいのみこと)が祀られている。尚、門真市には堤根神社が2つある。筆者が訪れたのは、宮野町にある堤根神社である。

日本書紀の仁徳天皇十一年冬十月に「北の河の澇を防がむとして茨田堤を築く」という記述がある。また古事記にも「秦人(はたびと)を起用して茨田堤をつくった」という意味の文言が書かれている。秦人とは、大陸から渡来した技術者のことだ。

文中の「澇」は「こみ」と読むが、訓読みで「おおなみ」と読むことから考えて、水害を意味するのだろうか。

当時の大阪は今のような広大な平野ではなく、草香江(くさかえ)と呼ばれる湿地帯が広がっていた。そこへ北東から淀川の分流、南から平野川(今の大和川)が流れ込んでいたが、外海への流出口は南から伸びる上町台地と北から延びる砂州によって狭められていたため、河川から流れ込む水量が増えると簡単に氾濫したという。

折しも奈良盆地から難波の地に本拠を移したヤマト王権が上町台地に難波高津宮を設けていた。そのため食料や生産物を供給する後背地の必要に迫られて、河内平野の開発を決意したことから、渡来人の技術を借りて堤が築かれたというわけだ。

堤は淀川の分流に沿って約20kmにわたって築かれたといい、当時の地名から「茨田堤」と呼ばれた。

堤の築造中に2カ所、どうしても決壊してしまう場所があった。そこに人柱を立てたという記述が日本書紀にみられる。今の大阪市旭区千林と寝屋川市大間あたりらしい。生贄として選ばれた人が実際に生きたまま埋められたかどうか定かではないが、工事の無事を祈る何らかの儀式が行われたと思われる。

落ち葉に埋もれてしまいそうな石碑

茨田堤がつくられたことで実際に水害が減り、茨田地域の開発が促進された。日本書紀には茨田堤がつくられて間もなく、茨田屯倉(まむたのみやけ)が建てられたという記述がある。

屯倉(みやけ)とは、時の政権が直轄経営する倉庫や土地を意味する言葉で、「ミヤケ」の「ミ」は敬語、「ヤケ」は家屋を表す。古事記や風土記には「屯家」「御宅」「三宅」「三家」とも表記されているが、意味は同じである。

そういえば「みやけ」という苗字のルーツは、この時代の政権と何か浅からぬ縁があるのかもしれない。

#宿場

#守口宿

#仁徳天皇

#大坂

#日本書紀

#古事記

#奈良盆地

#大和川

#渡来人

#ヤマト王権

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?