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ぶらり関西みて歩記(あるき)

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東海道は五十三次、すなわち街道沿いに53の宿場があったというのが一般的な認識だ。ところが実際には五十七次あって、枚方は56番目の宿場として栄えていた。
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#宿場

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〔第4回〕 まるで昼間みたい!?  明治末期、守口市初の電灯が灯った難宗寺 文禄堤の片隅にポ…

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〔第3回〕 なんでやろ?  言われてみれば、くねくね蛇行が多い京阪本線 読者の方から「他…

ぶらり関西みて歩記(あるき) 守口宿

〔第2回〕 世界一の古墳だけじゃない。 仁徳天皇が残した日本最古の堤防「茨田堤」 京阪本線…

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枚方宿〔第5回〕 古墳の上に建つ意賀美神社と戦国時代から生き続ける巨木 願生坊の前を、小高い丘に向かって歩く。左右に分かれる三叉路で、左に見える鳥居から続く階段を上ったら意賀美神社だ。意賀美と書いて「おかみ」と読む。 いま意賀美神社が建つ丘には、江戸時代まで真言宗万年寺とその鎮守社の牛頭天王社があって、丘の名も「万年寺山」と呼ばれていた。 伝承によると推古天皇の時代(592~628年)に、高麗から恵灌という僧侶が渡ってきた。このあたりの景色が唐の林岸江に似ているというの

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枚方宿〔第4回〕 戦国時代までは寺内町として栄えた枚方。都市機能はやがて川沿いの宿場町へ…

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枚方宿〔第2回〕 シーボルトも訪れたかもしれない船宿「鍵屋」と淀川水運の要衝「郵便屋の渡…

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枚方宿〔第3回〕 「くらわんか舟」の起源は、家康の危機を救った商売人。売り声は、やがて枚…